山田和樹指揮横浜シンフォニエッタ演奏会

2023年1月20日(金) 18時開演

福島市音楽堂

 

1.シューベルト:《ロザムンデ》序曲Op.26,D.797

2.シューマン:ピアノ協奏曲イ短調Op.54

3.シューマン:献呈(リスト編) (アンコール)

4.ブラームス:交響曲第2番ニ長調Op.73

5.アザラシヴィリ:ノクターン (アンコール)

 

古海行子(ピアノ) (2,3)

横浜シンフォニエッタ (1,2,4,5)

指揮:山田和樹 (1,2,4,5)

 

 

 16時からシューマンのリハーサルを見ることができた。開場に入るとまだ始まっておらず,古海さんがピアノの脇に座っているところ,男の人が何かの曲をガンガン弾いていて,調律師にしてはおかしいなと思って見ていると,山田さんだった。

 遠かったので何を話しているのかは分からなかったが,お互い手慣れた感じで,30分ほどでリハーサルは終わった。時間からすると,ブラームスはその前にリハーサルしていたのだろうか。

 

 元々の曲は,シューマンブラームスの2曲だけだったが,1曲目に《ロザムンデ》序曲が追加された。シューベルトは苦手な方なのであまり聴かない曲だが,序奏部を早めのテンポで開始し,その後もダレることなく進め,飽きずに聴くことができた。

 

 シューマンのピアノ協奏曲は,シューマンの中では交響曲第2番と並んで好きな曲。古海さんはショパンコンクールでの演奏をYouTubeで見ていたが,思ったより小柄。でも演奏は十分パワフル。オケと息の合った演奏をしていたが,この日がこの曲を演奏するのは初めてだったのだそう。まだ24歳と若いが,華があってしかもしっかりしているように見えたので,今後が楽しみ。

 

 アンコールはシューマンの《献呈》。アンコールの定番のような曲だが,とろけるよう美しさにうっとり。曲が終わるとすぐ「ブラヴォー」と叫ぶおじさんがいたが,気持ちは分かる(ただし,相手が女性なので「ブラヴァ!」と叫ばなければならない。下手に叫ぶと恥をかく)。

 

 後半が始まる直前に,山田さんがマイクを持って登場。海外と行き来しているので平日のこの日しか来られなかったことを詫び(もちろん,詫びる必要はないわけだが,ご愛敬),横浜シンフォニエッタ(当時はTOMATOフィルハーモニー管弦楽団)を自ら立ち上げた当時の苦労話(自分で会場や楽譜の手配,楽器運びなど全部やったそう)や,古海さんがシューマンの協奏曲を弾くのは今日が初めてであることなどを話し,最後に楽団員のうち福島県出身者を紹介してくれた。

 

 ブラームス交響曲第2番は,ブラームスの中でも一番好きな曲で,交響曲の中でも好きな曲のベスト5には入る。特に第4楽章は,気分を上げたいときにいつも聴く曲だ。

 解釈自体はオーソドックスで,気持ちよく流れていくので,終わるまですごく短く感じた。特に,第1楽章の最後の野太いホルンのソロがよかった。

 第4楽章の最後は福島市音楽堂では狭かったか,音が飽和してカオスになってしまっていた。

 

 山田さんは,童顔で幼く見えるため,まだまだ若いのかと思ったら,もう43歳(すぐ44歳になる)。意外に体は大きくてがっしりされている。そして何より,世界をまたに掛けて活躍していることからくるのであろう風格が漂っていて,ただ者でないオーラ(カリスマ性と言っていいのだろう)が出ているのがよく分かった。これからますます飛躍しそうだ。

 自身が立ち上げた横浜シンフォニエッタとは,家族のような親密さが見えて心地よかった。チラシにはかなり編成が小さく古典配置の写真が掲載されていたが,この日は通常の配置でチェロが前。第一ヴァイオリンは10人,コントラバスは4人。ホームページでメンバー表を見るとかなり少ないので,エキストラが結構入っていたということか。ヴァイオリンの対向配置はいいがコントラバスが向かって左にいるのはどうも落ち着かない気がするので,通常配置で安心して聴けた。

 ヴァイオリンのメンバーは,第1と第2が固定ではないようで,前半に副コンサート・ミストレスの位置にいた方が,後半は第2ヴァイオリンに座っていた。

 小規模の編成だが,HIPではなく,ヴィヴラートをたっぷりかけたオーソドックスな演奏スタイル。変な癖がないので曲に集中して聴くことができた。一つだけ特徴的だったのは,どの曲も最後の和音を伸ばす際にちょっと弱めて終わるところ。山田さんの癖か,それだけはあまり好きではなかった。

 

 満員とはいかなかったのがもったいない,とても満足したいい演奏会だった。また福島に来てほしい。

 

 

 

高橋幸宏さんのこと

 高橋幸宏さんが亡くなった。

 YMOのメンバーの中では一番好きだった。

 YMOに目覚めたのは,散開コンサートをNHKで見てから。1983年の大みそかだった。夕方から「YMOスペシャル」として放送され,録画して数え切れないほど見た。格好良かった。

 曲の合間に,3人のメンバーそれぞれのVTRがあって,これがとても面白かった。いや,坂本さんのだけは全然面白くなかったが。

 細野さんのは一番面白かったが,得体が知れなかった(伊武雅刀さんのことも当時は知らなかったし)。坂本さんのはひたすら気持ち悪くて怖かった。デヴィッド・ボウイ樋口可南子との対談は,何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 幸宏さんが一番まともで,しかもおしゃれだった。

 散開コンサートの演奏も最高だった。やはり,幸宏さんのドラムに一番魅了された。歌はもちろんいいのだが,とにかくドラムが格好良かった。そのころは,演奏のことはよく知らなかったが,途中に幸宏さんと交代してドラムを叩いていたデヴィッド・パーマーのドラムとは明らかに音が違う。パーマーのドラムは剛直で正確無比だが,幸宏さんはもっとエモーショナルで,言ってみればエロかった。ドラムの音が人によってこんなに違うというのは驚きだった。終わりの方でまた幸宏さんがドラムに戻って,「TECHNOPOLIS」が始まるところが最高に格好良かった。

 その頃使われていた電子ドラムがまた格好良かった。今はライヴで電子ドラムを使う人はほとんど見ないが,あの頃はあれが最先端だったのだ。薄っぺらい板を叩くのがすごく格好良かったのだ。そして,そこに未来を感じることができた。電子ドラムを見なくなって,寂しい。ドラムマシンは普通に使われているのに。時代は巡るので,また流行るかもしれない。流行ってほしい。

 そういえば,同じく電子ドラムで一世を風靡した,C-C-B笠浩二さんも昨年末に亡くなったばかり。何かつながりを感じる。

 

 散開コンサートは,「AFTER SERVICE」としてCD化されているが,NHKで放送されたのはこれとは別の日の演奏で,曲によってはかなりアレンジが変わっている。分かりやすいのは「TONG POO」と「SOLID STATE SURVIVOR」だろう。このうち「TONG POO」はかつて「YMO伝説」(VHS・LD・DVD)に収録されて商品化されていたのだが,「SOLID STATE SURVIVOR」は商品化されていない。「AFTER SERVICE」と違って,冒頭に幸宏さんのドラムの一撃があり,そこが格好良いのだ。何とか商品化されないものだろうか。

 ぜひ,YMOスペシャル」で放送されたドキュメントを含めた完全版にして,ブルーレイで商品化してほしい。待っている人はたくさんいるはずだ。

 

 

只見線再開通

 今年(2022年)10月1日,只見線が全線再開通した。

 

 昼間はすごく混雑しているらしい。おめでたいことだ。

 夏になったら青春18切符で乗りに行こうと思っている。そこで,どんな旅行プランになるかと時刻表たところ,以前より随分所要時間が増えていることに気が付いた。

 

 豪雨災害で不通になる前には何回か乗っているが,単純に往復した時は,越後湯沢まで行って昼食をとって戻ったのだが,今は越後湯沢まで行くと,22分しか時間がなく,とてもゆっくり昼食をとることはできないことが分かった。以前はたっぷり1時間以上時間が取れたのである(土曜・休日の場合)。

 

 そこで,被災前の時刻表(2011年7月)と比較すると,会津若松発小出行の始発列車は,会津川口~只見間が9分伸びており,更に只見での停車時間が3分だったものが23分に伸びているため,会津若松~小出間では19分伸びていることが分かった。会津若松を出発する時刻が9分遅くなったので,小出に着くのは28分遅くなった

 これは,会津若松会津川口間は6分短縮,只見~小出間も6分短縮しているので,新型車両導入によりスピードアップしている一方で,会津川口~只見間でスピードダウンしているということ。おそらく,復旧直後なのでスピードを落とし,更に不測の事態に備えて只見での停車時間を長くしているのだろう

 JR東日本としては当然の処置なのだろうが,只見線関連のテレビや記事はほとんど見ているのに,このことに触れているのは見たことがない。

 本数や運転区間の増を求める声は大きいが,この事実はきちんと伝えるべきだ。おそらく,線路の状態が安定すればスピードアップするはずなので,今のダイヤが只見線の本来の姿だと思われると,今後の集客にも影響するであろうから。

            2011年7月  2022年10月

 会津若松会津川口  2時間03分  1時間57分

 会津川口~只見    0時間43分  0時間52分

 只見~小出      1時間17分  1時間11分

 会津若松~小出    4時間14分  4時間33分

 

 

 最後に,只見線応援団」に対して苦言を呈したい。

 発足直後から加入しているが,会員証が届いたっきり,何の連絡もない。どんな活動をしているのかもさっぱり分からない。ホームページを見たら,「只見線応援団通信」というのが送付されることになっているようだが,来たことはない。

 「只見線応援団通信」はホームページから見られるのだが,送らないのなら,メールマガジンくらいやってもいいのではないか。

 只見線関連の番組を見ると,出てくる人は同じ人ばかり。再開通の日の地元の人のインタビューを見ていたら,勝手に頑張ってください,みたいな,他人事のような答えをする人がいて,がっかりしてしまった。頑張っている方たちには敬意を表するが,内輪だけで盛り上がっていてはいずれ息切れする。

 せっかく「応援団」に入っている人がいるんだから(今,どのくらいいるのか分からないが),団員も大事にしてほしい

 

 

 只見線は,冬期間の災害も多いところだ。過去には雪崩で線路が埋まったこともある。金山町あたりは,融雪期の災害が特に多い。今年も大雪のようなので,せっかく再開通した線路がまた被災しないことを祈っている。

 

 

Amazon Music(Android版)が重すぎる件

 このところ,Androidスマホの動作が重くなって困っていた。原因は分からない。単に古くなっただけかもしれないと思いつつも,それもおかしいなと思っていた。

 あまり使わないアプリを消し,キャッシュをクリアし,アプリを閉じ,再起動し,と,いろいろな手を打ったが,あまり変わらなかった。

 それが,昨日になって,突然使い物にならないくらい悪化した。バッテリーもものすごい勢いで減っている。バッテリーの使用量を見ると,Amazon Musicの使用量が断トツに増えていた。

 心当たりと言えば,朝のうちに幾つかのアルバムをダウンロードしたこと。もちろん,SDカードにはまだまだ余裕があるので,何の問題もないと思っていたのだが。アプリ全体でのメモリの使用量は,せいぜい1GB程度。ダウンロードも原因の一つかもしれないが,まずはアプリ自体が問題ではないかと思い,一度アンインストールすることにした。

 そもそも,アンインストール自体が,途中で固まってしまいうまくいかず,やり直して何とかアンインストールできた。

 その後再起動し,充電して様子を見ると,アンインストール前とは比べものにならないくらい軽くなり(それでも,以前よりは重い感じがするのだが),バッテリーの減りも遅くなった。

 

 Amazon Musicが犯人なのは間違いないようだが,ダウンロードとの関係はこれから更に検証したい。

 SDカードに余裕があれば,ダウンロードしておいた方がスマホに負荷が小さいのではないかと思っていたのだが,どうもそうではないようだ。

 

 

 その他,今分かっている不具合を挙げておく。

 まず,Androidでマイライブラリにあるアルバムを選択して開くと,曲が1つも表示されず,再生できないことが多々ある。一旦戻ってもう一度やり直すと曲が出てくるのだが,アプリの不具合ではないか。イライラする。

 

 ユニバーサルミュージックのアルバムで多いのだが,曲の最後が切れているものが多くある。例えば,バーンスタイン指揮のチャイコフスキーの《イタリア奇想曲》を聴いていたら,最後の和音がまるまる切れてなくなっている。ほかにもたくさんある。

 最新の録音ではこういうことはないが,ちょっと古い(と言ってもデジタル録音でもそう)ものに多い。試しにSpotifyで同じ曲を聴くと,全然切れていない。ユニバーサルから提供された音源に問題があるのか,Amazon側の問題なのか,どうもAmazon側の問題のように思うのだが。

 また,1つのアルバムの中にHDとULTRA HDが混在しているのがたくさんあるのも,相変わらずだ。

 

 検索も,mora qualitasほどではないが,どうしようもないくらいひどい。音質さえ我慢できれば,Spotifyの方が絶対いい。AmazonをやめてSpotifyに乗り換えるか,本気で考えないといけないかもしれない。

 

 

ティーレマンの謎

 クリスティアンティーレマンという指揮者は苦手だ。はっきり言って,何がいいのか全然分からない。

 

 ティーレマンは,ブルックナーの生誕200年である2024年に向けて,ウィーン・フィル交響曲全集を制作中である。ウィーン・フィル初の同一指揮者による全集として注目されていて,今回,第5番が発売された。

 ティーレマンは,16歳のときにカラヤンベルリン・フィルによるこの曲の演奏を聴いて衝撃を受けたとのことであり,既にミュンヘン・フィルとも録音しているなど,得意にしているようだ。

 早速聴いてみたが,やはりティーレマンの何がいいのかはさっぱり分からなかった。むしろ,何がダメなのかが見えてきた。

 まず,リズムが悪い。ダラダラしていて,緊張感がない。アインザッツがそろわないのも目立つ。棒が分かりにくいのだろうか。棒の振り方が,普通と上下逆の動きをするということは指摘されているが,そのせいなのだろうか。そして今回特に気になったのは,音自体に緊張感がなく,だらしないこと。例えば,第4楽章の最後のところ,オケが全力で演奏しているはずなのだが,どうもスカスカに聞こえるのだ。カラヤンの演奏では,こういうことは絶対にない。

 

 以前は割と賛否両論だったように思うが,最近は絶賛ばかりのように思う。本当に,この人の演奏の何がいいのだろう。よほど人がいないからなのか。

 

 

新時代の名曲名盤プラス①

 2022年9月号の「レコード芸術」の特集は,「新時代の名曲名盤プラス ①アルベニスからハチャトゥリアンまで」。

 2020年5月号から2022年5月号まで続いた「新時代の名曲名盤500」の補遺といった形で,100曲を2回に分けて掲載するらしい。完結は今年の11月号になる。

 

 新時代の名曲名盤500のときに,既にこの手のランキングは破綻していると指摘したが,「プラス」の方は,ややマイナーな曲が並んでいることもあり,まだギリギリランキングとしての体裁を保っているといっていい結果となっている。まあ,名盤が少ない曲ばかりだから,ということになるのだろう。

 

 ややマイナーな曲ばかりかと思いきや,「500」に入っていなかったのが意外な曲も入っていた。例えば,ヒンデミットの《画家マティス》。これは「500」に入っていても良さそうな曲の最たるものではないかと思った。ところが,手許にある過去の「名曲名盤」シリーズを見たところ,《画家マティス》は1つも入っていなかった。前回の「最新版 名曲名盤500」で《ウェーバーの主題による交響的変容》が入っているだけで,ヒンデミット自体,完全に無視されているようなので,音楽之友社的には,ヒンデミットの曲は名曲枠には入っていないようだ。

 その《画家マティス》の1位になったのは,2000年録音のサロネン/ロス・フィル盤。早速Amazon Musicで聴いてみたが,はっきり言って,1位に選ばれるほどの演奏とは思えなかった。線が細く,音は洗練されておらず,今一つパッとしなかった。しかし,サロネン盤は《ウェーバーの主題による交響的変容》でも1位になっている。2曲とも,圧倒的とは言えないが,2位とはそれなりに差がある。やはりこういうのは,選者次第ということなのだろう。

 

 このサロネンヒンデミットは,Amazon Musicですぐ聴くことができたのだが,実は,「廃盤」扱いとなっている。今回の「プラス」で非常に目立つのが,この「廃盤」なのである。「廃盤」と「海外盤」が非常に多い。

 数えてみると,1位だけしか数えていないが,50曲の1位のうち,「廃盤」は10曲,「海外盤」は19曲もあった。それだけ,国内のクラシックCDの需要が落ちているということなのだろう。しかし,サロネンヒンデミットのように,「廃盤」でもサブスクで聴けるものは多い。こうなってくると,レコード芸術ももっと配信にシフトしていかないと置いてかれて行ってしまうと思う。配信でいくらでも聴けるのに,「廃盤」と表記するだけでは,無責任だ。

 既に,物理メディアでは通常のCDでしか販売されていないのに,サブスクではハイレゾで聴けるものがたくさんある。最新録音は,ほとんどがハイレゾだ。こうなってくると,ますますCDを買う意義がなくなってしまう。

 レコード芸術のような雑誌も,それに対応した内容に変えていかないといけないだろう。

 

 

水の反映

 ドビュッシーの《映像》第1集の第1曲は,一般的に〈水の反映〉または〈水に映る影〉と訳されている。この曲は,ドビュッシーの曲の中でも特に好きな曲で,5本の指に入ると言ってよい。したがってよく聴くのだが,〈水の反映〉というタイトルにはずっと違和感があった。

 違和感というより,意味不明感とでも言った方がいいだろう。皆さん,〈水の反映〉と言われて意味が通じるのだろうか。〈水に映る影〉なら分かる。しかし,〈水の反映〉というのは,日本語としてもおかしいのではないか。

 

 音楽之友社レコード芸術やその別冊など)では〈水の反映〉を使っている。なので,自然と〈水の反映〉を多く見かけることになる。ただし,音楽之友社から出ている「作曲家◎人と作品シリーズ ドビュッシー」(松橋麻利著)では〈水に映る影〉を使っている。

 ドビュッシーの研究者としても有名な青柳いづみこさんも〈水の反映〉だ(「ドビュッシーとの散歩」中公文庫 118ページ参照)。

 レコード会社はどうか。ドイツ・グラモフォンは混乱している。ベネデッティ・ミケランジェリ盤では〈水に映る影〉,チョ・ソンジン盤では〈水の反映〉としている(いずれも,ホームページでの表記)。

 NHKは〈水に映る影〉を使っているようだ。直近では,BS4Kでこの5月に放送された小川典子のリサイタルでの表記がそう。2010年放送の「名曲探偵アマデウス」でも,〈水に映る影〉としていた。

 

 〈水の反映〉がおかしいと感じる理由は,水「の」反映としているからだと思う。

 「反映」とは,辞書では次のように説明されている(一部を抜粋)。

広辞苑 第七版】

①光が反射して像ができること。
②色などがうつりあって美しさを増すこと。「夕日が湖に―する」

 

大辞林4.0】

①光や色が反射してうつること。「木々の緑が湖面に―する」
②色や光が互いにうつり合って,美しくはえること。

 

大辞泉(8)】

1 光や色などが反射して光って見えること。「夕日が雪山に―する」
2 対照的に色がうつり合って美しさを増すこと。「壁と床(ゆか)の色が面白く―し合っている」

 

明鏡国語辞典 第二版】

①光や色が反射してうつること。また、うつすこと。「夕日が川面に━する」
②光や色がうつり合って、輝きを増すこと。
「もろ肌を脱いで石鹼で磨き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬(ちりめん)の羽織と━している〈漱石〉」

新明解国語辞典 第七版】

(一)<どこ・なにニ反映する>
何かの光を受けた面が(その光を映して)光って見えること。
〔反射と同義で使うことも まれではない〕
「夕日が△雪山(窓・池)に反映する」
(二)<なにニ反映する>
他の色との取り合わせがよくて、その色が一段と美しく見えること。

 

三省堂国語辞典 第七版】

①〔文〕反射して目に見えること。
「夕日が━する」

 

日本国語大辞典 精選版】

① 光や色が反射して光って見えること。
② 色などがうつりあって美しさや輝きなどを増すこと。

 

以上を見れば明らかだと思うが,新明解にははっきりと書いてある。つまり「何に」が必要なのに,〈水の反映〉だとそれがないのだ。

 ドビュッシーは,あえて「○○が」を明らかにしていないと思われるので,具体的なものを書けないのは当然だと思う。

 しかし,「反映」という言葉を使う以上,「○○が水に反映する」としないといけないのにそうなっておらず,かつ,「の」がどういう意味で使われているのかがはっきりしない。そのまま読めば,「水が何かに反映する」としか読めない。これでは意味不明となるに決まっている。

 

 一方,〈水に映る影〉はどうか。

 ここでポイントになるのは,「影」だろう。通常使われる,「物体が光をさえぎったとき、光と反対側にできる黒い形」(明鏡国語辞典 第二版)の意味では使えないのは明らか。もう一つの意味である「光の反射で、水面などにうつる物の形。「池にうつる山の━」」(同)のことであれば,十分意味は通る。

 もちろん,ほかの辞書にも同じような説明がある。これならよく分かる。

 別に,〈水の反映〉に比べて(言葉として)何かが劣るという感じはしない。

 

 ところで,この曲は元々フランス語で「Reflets dans l'eau」という名前である。フランス語は分からないのだが,プログレッシブ仏和辞典第2版によると,「reflet」とは,「(鏡,水などに映る)影,像」とある。

 まさに,〈水に映る影〉そのままではないか。

 

 

 今回改めて調べてみて,〈水の反映〉と書いてあるのを見ると今まで以上に気持ち悪くなるようになってしまった。頭の中で〈水に映る影〉と変換して読むしかない。

 

 

 ちなみに,音楽之友社から出ている「作曲家別 名曲解説 ライブラリー⑩ ドビュッシー」の〈水の反映〉の解説(村井範子)には,こう書いてある。「繊細なアルペッジョの美しさは,絵画的に光と陰とにつながり,水の反映が輝き,かつゆれ動く詩的な情緒をつたえる。急速な動きをもって流れる楽句は,水に映る細かな波のささやきまでも表現している

 「水反映が輝」くとは,どういうことなのだろうか。

 

 

映画「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」

 映画「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」を見た。

 元になっている機動戦士ガンダムTHE ORIGINは,「前夜 赤い彗星」をアニメで見ただけで,漫画は一切読んでいない。

 「赤い彗星」を見て感じたとおりの違和感だらけの作品だった。

 

 設定がいろいろ変わるのはしょうがないとしても,富野由悠季監督の世界観とはあらゆる面で違いすぎる,というのが違和感の一番の理由だと思う。

 もし,同じストーリーで富野監督が制作していたら,全く違った作品になったのは間違いない。キャラクター,メカ(の動かし方),そして世界観,全てが違いすぎる。

 初代ガンダムや最新作のGのレコンギスタと見比べれば,すぐに感じられると思う。

 

 まず,キャラクターだが,セリフから動きから,いちいち大げさで,わざとらしい。富野ガンダムと性格を変えている,といったレベルではない。全員が同じように大げさでわざとらしいのだ。こういう演出は,富野監督は嫌うと思う。これは,ガンダムの世界ではない。

 

 メカの動きも違和感だらけだ。全体の造形が,富野ガンダム(大河原ガンダムと言うべきか)と随分違う。まるで違うアニメを見ているかのようだ。そして,最近のガンプラでも見られる,例えばガンダムの方に描かれている「EFSF」などの文字やマーク。富野監督は,こういうのをあえて排除しているように思うのだが,これだとやはり別物に見える。まるで,ガンプラバトルのようだ。そして何より,動きがおかしい。いかにもCGですよ,といった感じの動きは,富野監督は絶対やらない動かし方だ。戦艦の動きもそう。すごく安っぽく見える。

 

 ストーリー面では,ドアンがなぜ子供達を連れてあの島に住んでいるのかが,イマイチよく分からなかった。テレビ版での,ごく短い説明の方が,はるかに説得力がある。というか,想像力で勝手に補わされてしまうのだ。しかし,映画では,周辺の説明が多すぎるので,かえって想像力が働かなくなってしまい,結局,何だかよく分からないで終わってしまうのだ。

 その一方で,ブライトと連邦軍幹部とのやり取りなど,本筋とあまり関係のないどうでもいいエピソードが長々とあり,見る気をそがれてしまう。

 

 6月2日のNHKニュースウォッチ9でこの映画が取り上げられていて,「唯一変えなかったシーン」として,終盤でのアムロが「あなたの体に染みついている戦争のにおいが戦いを呼び寄せるんじゃないでしょうか。それを消させてください」と言ってドアンのザクを海に投げ捨てるシーンを紹介しているのだが,テレビ版ではすごく説得力があるのに対して,映画ではアムロのセリフが非常に唐突に感じられた。

 思うに,テレビ版では,ごく短い放送時間なのに,アムロとドアンの間に濃密なやりとりがあって,信頼関係が築かれていったことが示唆され,アムロがドアンのことをよく理解した上であのセリフと行動が出てきたように思わせられるような展開になっているのに対して,映画では,尺ははるかに長いのに,アムロとドアンの関係が今一つ希薄で,そこまでアムロはドアンのことを理解しているのか分からないうちに,あのシーンが突然やってくるように見えてしまうのだ。

 それはおそらく,マルコスというテレビ版にないキャラクターに,アムロとの絡みのほとんどを担わせてしまったことと,テレビ版ではあの島にいなかったカイ,ハヤト,スレッガー,セイラが現れたりしたことと関係あると思う。

 いろいろ説明しすぎて,かえって見る者の想像力をそぎ,重要な場面での印象を弱めてしまうという,最近のアニメの弱点(問題点)を露呈した作品になったように思う。

 

 あまり書きたくないが,声優の問題も大きい。

 既に亡くなってしまった方もおり,やむを得ないのだが,テレビ版と同じなのはアムロ,シャア,カイくらい。

 それで,アムロ古谷徹さんなのだが,声はいまだに若々しく,アムロ以外の何物でもないのはさすが。しかし,ろれつはだんだん怪しくなってきていて,大げさな時代劇みたいな物言いになっているのは残念だ。

 もう一人気になったのは,ブライト。かなり鈴置さんを意識しているようで,声を無理に作りすぎ,不自然さが際立ってしまっている。

 ほかの方たちは,コメントする気にもならない。声優さんの変更というのはものすごく大きなことなのだ。それが,本来の声優さんがアムロとシャア(登場は一瞬だけだが)だけとは・・・。リメイクする意味があるのか考えてしまう。

 

 最後にはっきり言いたい。ファーストガンダム作画監督を務めた安彦良和さんの作品であり,「THE ORIGIN」を名乗るこのシリーズだが,富野ガンダムとは世界観から何から全く別物だ。ファーストガンダムをきちんと見ていない方は,これが本物だとは決して思わないでほしい。

 

 

 さて,7月と8月には,富野監督のGレコのⅣとⅤが続けて上映される。

 結末は,テレビ版とは随分変わるという噂もあるが,どうなるか,楽しみであると同時に不安も大きい。

 またZガンダムの映画版のように「やっちまう」ことがないよう祈っている。

 

 

ブラタモリを見て

 先週のブラタモリを見て,考えてしまった。

 この4月からアシスタントのアナウンサーが交代した。この日は日本の鉄道スペシャルということだったが,アシスタントの方がいろいろと余りにも知らなすぎる。正直,バカなのか,と思わせられるほど。その前の,デビューの回でもそうだったのだが,しかし,経歴を見ると,日本でも最高の私学の1つであるK大学の法学部を卒業されているとのこと。

 民放の女子アナならともかく,NHKのアナウンサーとなれば,みなさん非常に高学歴で,相当頭が良くないと入れないはず。前任の方もそうだが,こんなことも知らないのかと驚かされることが多かった。NHKのアナウンサーだよなと思って見ていると,笑えないことも多かった。

 

 知らないのは,演出じゃないのか,と思ってしまう。

 前々任者のときは,そこまで変だとは思わなかった。知らないことは知らないけど,別なところで多分に知性が感じられたから。その方が今,大活躍されているのは周知のとおりだ。

 タモリのすごさを引き立たせるためにわざとやってるなら,やめた方がいい。不自然ですぐバレる。

 タモリにも失礼すぎる。

 タモリのすごさは,高学歴の女子アナがちょっとやそこらで太刀打ちできるものではない。

 知ってるなら,知ってると言って,その上で素人目線に立って話を合わせてほしい。

 見ている視聴者もバカにされている気がする。

 

 

小澤征爾とオルフとマーラー

 4月になると,オルフの《カルミナ・ブラーナ》が聴きたくなるのである。

 定盤は,小澤征爾さんが1988年6月25日と26日にベルリン・フィルと録音したフィリップス盤(現在は,デッカ)。晋友会合唱団が日本から参加し,ソリストエディタ・グルベローヴァ(ソプラノ),ジョン・エイラーテノール),トーマス・ハンプソン(バリトン)という超豪華盤。

 当時はもっぱら晋友会合唱団の参加が話題となったように思うが,小澤さんの指揮とベルリン・フィルの演奏が圧倒的だ。これほどのパワーに溢れた演奏は,ほかに聴いたことがない。テンポを上げて加速するところが何箇所かあるが,そういう所でのテンポ感(総じて,ほかの演奏より速い)と重量感がすごい。打楽器の活躍する曲だが,どの楽器を取っても,ほかのオケとは音の質感が違う。

 声楽陣も全く隙がなくて,特にグルベローヴァは完璧。ハンプソンはまだまだ若手の頃で,素晴らしい美声を聴かせるし,エイラーもほかの演奏にありがちな皮相な感じがなくて,この演奏にぴったりだ。

 そして,ベルリン・フィルの録音にはまだ経験の少なかったと思われるフィリップスの録音がまた素晴らしかった。ブレンデルアバドブラームスハイティンクマーラーといったシリーズが始まってはいたが,グラモフォンとはまた違う,広い空間を感じさせ,分離がいいのに気持ちよく音が溶け合い,重量感にも欠けないという,不思議な録音。とにかく抜けがいい。本当に,EMIじゃなくてよかったと思う。

 小澤さんは,この後,1989年のジルヴェスター・コンサートに出演してこの曲を取り上げており,DVDでも出ている。このライヴも素晴らしいが,やはり完成度の高さと音の良さでは,CDの方が圧倒的だ。

 

 今年は,サブスクのおかげで,これまで聴いたことのなかった,小澤さんの旧盤(ボストン交響楽団との1969年の録音)のほか数種の録音を聴いたが,やはり小澤/ベルリン・フィル盤の絶対的優位は揺るがなかった。

 

 個人的には,この頃(80年代後半から90年代初頭)が小澤さんが一番輝いていたと思っている。この後,ボストン交響楽団を辞め,サイトウ・キネンに軸足を移し,さらにウィーン国立歌劇場に行ったわけだが,(ご本人やサイトウ・キネンの関係者は絶対に認めないだろうが,聴く方からすると)覇気が失せてマンネリに堕し,かといって師匠であったカラヤンバーンスタインのような巨匠的な指揮者にもなれず(時代が悪かった,ということもあるが),体調不良もあっていつの間にか見かけなく(聴かなく)なってしまった。大変残念なことだ。

 ついでに言うと,ウィーン時代の活動が日本ではほとんど知られなかったことも大きい。この頃にウィーン・フィルと正式に録音したCDは全くないし,ウィーン国立歌劇場で上演されたオペラのCDや映像作品もほぼ皆無に近い。NHKなどのテレビで放送されることもほとんどなかった。一体なぜなのだろう。

 ウィーン・フィルについて言うと,ニューイヤー・コンサート以外のCDがほとんど出ない時期に重なるので,小澤さんの問題ではなかったのかもしれないが。CDが出ないだけでなく,HIPの一般化もあって存在意義が問われていた時期でもある。

 

 個人的な小澤さんのベスト3は,この《カルミナ・ブラーナ》と,1986年にボストン交響楽団と録音したプロコフィエフの《ロメオとジュリエット》と,1987年にボストン交響楽団と録音したマーラー交響曲第4番である。どれも,繊細でありながら覇気に溢れた素晴らしい演奏・録音だ。

 

 

 

 マーラーについては,4番はベスト盤として挙げたが,ほかの曲については実はかなり微妙だ。正直,小澤さんとマーラーは合わないのではないかと思っている。

 これもサブスクのおかげで,これまで聴けなかったマーラーの録音を少し聴いてみたのだが,やはりその思いを強くした。

 小澤さんのマーラー交響曲録音は,録音順に並べると次のようになる。

 

① 第1番《巨人》 ボストン交響楽団(1977年10月 グラモフォン)

② 第8番《千人の交響曲》 ボストン交響楽団(1980年10,11月 フィリップス)

③ 第2番《復活》 ボストン交響楽団(1986年12月 フィリップス)

④ 第1番《巨人》 ボストン交響楽団(1987年10月 フィリップス)

⑤ 第4番 ボストン交響楽団(1987年11月 フィリップス)

⑥ 第7番《夜の歌》 ボストン交響楽団(1989年3月 フィリップス)

⑦ 第9番 ボストン交響楽団(1989年10月ライヴ フィリップス)

⑧ 第10番~アダージョ ボストン交響楽団(1990年4月ライヴ フィリップス)

⑨ 第5番 ボストン交響楽団(1990年10月ライヴ フィリップス)

⑩ 第6番《悲劇的》 ボストン交響楽団(1992年1,2月ライヴ フィリップス)

⑪ 第3番 ボストン交響楽団(1993年4月ライヴ フィリップス)

⑫ 第2番《復活》 サイトウ・キネン・オーケストラ(2000年1月ライヴ ソニー

⑬ 第9番 サイトウ・キネン・オーケストラ(2001年1月ライヴ ソニー

⑭ 第1番《巨人》 サイトウ・キネン・オーケストラ(2008年9月ライヴ デッカ)

 

 これを見て分かるのは,1989年の第9番以降,ライヴ録音になったことである。ここが1つの分かれ目になっていると思う。ボストン交響楽団とのものは,第10番を除いて拍手入りのライヴ録音となっている。つまり,グラモフォンなどでよくやっていた,ゲネプロや修正パッチも含めた,本当にライヴ録音かよく分からないライヴ録音ではなくて,無修正に近いと考えられるのだ。単に拍手が入っているだけでなく,会場ノイズも結構入っているし,何よりミスや傷がそのままにされていることからも,それは分かる。はっきり言ってしまうと,小澤さんの頃のボストン交響楽団は,ほかのアメリカのオケ(シカゴ,ニューヨーク,フィラデルフィアクリーヴランド,ロス・アンジェルス,サンフランシスコなど)と比べると,かなり劣っていた。特に金管の非力ぶりは際立っていた。ほぼ無修正のライヴで,マーラーをCDとして出すには,そもそもかなり無理があったと言わざるを得ない。

 ちょうど,レコード会社の経営が厳しくなってきて,安易なライヴ録音が増える時期にかかってしまったのは,何とも不幸なことだった。当時,フィリップスでは,ハイティンクベルリン・フィルマーラー交響曲を録音しており,こちらは(演奏会に絡めてだが)全てスタジオ録音だった。小澤さんも,頑張って掛け合えばスタジオ録音で続けられたのでは,と思うのだが,無理だったのだろうか。

 ということで,小澤さんのマーラーシリーズは,スタジオ録音とライヴ録音で大きな差が出てしまう,非常に残念なものとなってしまった。

 もっとも,ハイティンクの方はその後8番と9番(《大地の歌》も)を残して頓挫し,フィリップス自体が消滅してしまうことになるのだが。それに比べれば,全集として完成できただけでも良しとすべきか,不完全なものを残す方が残念だと考えるかは,難しい問題だ。

 

 いずれにせよ,小澤さんのマーラーはかなり独特で個性的なもので,ボストン交響楽団の個性(?)も相まって,繊細極まりない演奏となっているのが特徴と言っていいと思う。

 ただし,それがマッチしているのは第4番くらいで,あとは聴かずもがな,と言いたくなる演奏だった。もちろん,小澤さんのマーラーが多くの人から評価されている(た)のは分かっているが,自分にとっては,そういうことだ。

 

 

 その小澤さんだが,かなり体調が悪いらしい。

 今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルでも,小澤さんの登場は告知されていない。そもそも,指揮台に立ったのはいつ以来になるのだろう。

 なおさら,ウィーン時代の録音・映像が残されていないことが残念でならない。これから商品化できるようなものは残っていないのだろうか。

 この3月には,女性誌に家庭内不和についての記事も掲載された。本当かどうかは分からないが,残念でならない。もう指揮はできないのだろうか。

 

 音楽家演奏家)の最後について,つい考えてしまう。

 頭がはっきりしているのに,体が言うことをきかず,演奏できないというのは,何とも辛いことだろう。

 カラヤンのように,全く突然逝ってしまう方が,本人にとっては幸せだろうか。さらには,シノーポリのように演奏中に逝ってしまうのはもっと本望か。

 長生きして,やり切ったと引退表明してその後穏やかな日々を過ごした後亡くなったハイティンクのような人生が,一番幸せだろうか。

 

 

サブスクの弱点

 もはやサブスク中心の音楽生活になり,CDは本当に欲しいものしか買わなくなって久しいが,「だからサブスクは信用できないな」という事態に遭遇した。

 

 今はAmazon Music HDを中心に,Spotifyを併用しているが,しばらく前に,クルレンツィス指揮のベートーヴェン交響曲(第5番と第7番)がAmazon Music HDから消えてしまった

 Spotifyでは配信しており,CDも廃盤になっていないようなので,何らかの事情でAmazonとの契約から外れたようだが,特に第5番はかなり話題になった録音で,今でも聴きたい人は多いと思うので,非常に驚いた。

 いつ聴けなくなるか分からないのがサブスクの問題点だという指摘は早くからされていたところだが,話題盤がこんなにも早くなくなるというのは意外だ。

 Amazonソニーの問題なのか,クルレンツィスの方の問題なのかも分からないし,たしかロシアのクリミア侵攻より前から聴けなくなっていたと思うので,それは関係ないと思う。

 

 

 クルレンツィスの話とは別に,むしろサブスクの方がCDを買うより有利な点もある。ハイレゾで聴けることだ。

 最近の録音だと,通常のCDでしか出ていないものが,サブスクだとハイレゾ(とDolby Atomos)で聴けるのが普通になっている。

 SACDで出ているものもあるが,SACDリッピングできないので外で聴くのには向かない。ユニバーサルが出しているBlu-ray Audioもまたリッピングできない。Blu-ray Audioを高音質で普通に再生できるようなユニバーサルプレーヤーはほとんど出回っていないので,どういう需要があってこういう出し方をしているのか,疑問でしかない。

 それなら,ベルリン・フィルが出しているように,CDを買うとハイレゾ音源がダウンロードできるようにしてくれた方がはるかにいい。

 これではますますCDを買わなくなってしまう。音楽業界が生き残っていくためにはCDを買わないとと思うのだが。困ったものだ。

 

【追記】2022.4.19

 Amazon Music HDでクルレンツィスのベートーヴェン(第5番,第7番とも)が復活していた。クレームが多かったのだろうか。

 それもあるが,少なくともクラシックについては,AmazonよりSpotifyの方が聴きたい曲が見つかるし,検索の精度も高い。

 

 

ニューイヤー・コンサート2022と《こうもり》序曲の謎(続き)

 前回この記事を書いてから,このブログにログインすらせずに放置していたので,大変失礼をしてしまったのだが,《こうもり》序曲の音の件について,とりてんさんが書いてくださっていた。

 

classic-cd.hatenablog.com

「手元のオイレンブルグのミニチュアスコアで確認すると、7小説目の1拍目のことと思われ、注釈があり「eの代わりにd」と書かれている。」

とのこと。

 

ところで,昨年のベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート(病気のペトレンコの代役でラハフ・シャニが指揮)でもこの曲が演奏されていて,こちらでは「e」の音が演奏されていた。

まだウィーン・フィル以外では必ずしも「d」の音で定着したわけではないということか。

 

この手の有名曲は,(テレビで放送されるような)コンサートでもCDでも取り上げられることが少なくなってしまったので,比較するのが難しい。

Amazon Musicで検索しても,おそらく本当はもっとたくさん配信されているのだと思うが,あまり引っかからない。しかも,古い演奏ばかりばかり。

 

いずれにせよ,ベルリン・フィルが違和感たっぷりの方でない音で演奏していたのは,気分がよかった。

 

 

ニューイヤー・コンサート2022と《こうもり》序曲の謎

 今年,2022年のウィーン・フィル,ニューイヤー・コンサートはバレンボイムの指揮だった。

 例年以上に,有名曲が少なかったように思う。曲目は指揮者が決めるのではなくウィーン・フィル側で決めるらしいので,バレンボイムのせいではないのだろうが,それにしても,という気がする。有名にならないのには,それなりに理由があるのだ。

 バレンボイムの指揮には全く期待していなかったので,まだ全部見て(聴いて)いないのだが,一部の曲を聴いただけで,もう聴かなくていいや,と思っている。

 有名曲の方が分かりやすいので,まずは《こうもり》序曲を聴いたが,案の定だった。なぜこの人が指揮者としてもてはやされているのか,全く分からない。アンサンブルは悪いし,リズムは悪いし,元気はないし。音に力がない。相変わらず,腕が硬い。ニューイヤー・コンサートなので,オケに任せて振らない場面も多かったが,それでもやはりつまらない。

 ピアニストとしては最高だったのに。

 そのピアノも,さすがに最近はテクニックの衰えが目立って,聴くのが辛いことも多くなった。昨年出たベートーヴェンソナタ全集は,かなり聴くのが厳しかった。1980年代の全集はあんなに素晴らしかったのだが。

 

 

 さて,《こうもり》序曲なのだが,冒頭でヴァイオリンの音が変わっているところがあり,音が外れているように聞こえるのだが,話題になってないように思う。

 ニューイヤー・コンサートでこの曲が取り上げられたのは,1989年のクライバーの後は2002年の小澤征爾まで間が空くのだが,この間にウィーン・フィルの使っている楽譜が変わったようだ。

 小澤征爾が振った2002年のときのCDでは[0:08]のところである。クライバー以前(カラヤンアバドなども)では違和感はないのだが,小澤以降の演奏では,音を外しているかのように聞こえるのだ。おそらく,自筆譜などを検討した結果なのだろうが,違和感しかない。ベートーヴェンの第九の第1楽章第2主題の音の問題にも通じるように思う。

 1987年録音のアーノンクールの全曲盤では,既に新しい方(と言っていいのか分からないが,違和感がある方)の音になっている。

 小澤のときは過渡期だったのか,「ほんとにこの音でいいのか?」といった感じで,萎縮しているかのような中途半端な弾きぶりだったが,今年はもう慣れたのか,みんな確信を持って弾いているように聞こえた。

 しかし,何度も言うが,聴く方からすると違和感しかないのだ。

 音楽学的には新しい方が正しいということになっているのかもしれないが,音楽的にはおかしいと思う。だからこそずっと古い方の音で演奏されてきたのだろう。

 楽譜から,何小節目の何の音,と特定して検索すれば何かしら情報が出てくるのかもしれないが,ざっと調べたところではそれらしい記述は見つからなかった。

 レコ芸相談室もなくなってしまったし,相談できるような詳しい人も身近にいないので,このもやもやはずっと続きそうだ。

 

 

アストラゼネカのせいで献血ができない

 アストラゼネカ製の新型コロナウイルスワクチンを接種してしまうと献血できない状況が続いている。

 

 日本赤十字社のホームページでは,アストラゼネカ社製ウイルスベクターワクチン※などを接種された方は、現時点では献血をご遠慮いただいています。(※現在、接種後の献血基準については厚生労働省で検討中です。)」と書かれていて,いつできるようになるのかの見通しも示されていない。

 

 外国では既に献血可能となっているところもあるので,まさしく,厚生労働省の検討が遅れているからだろう

 アストラゼネカ製ワクチンを打っている人が少ないので,検討が後回しにされているのではないだろうか。また,アレルギーのある人などに優先して回したので,アストラゼネカ製ワクチンを接種した人に献血する人は少ないと思われているのではないか

 しかし,ファイザーやモデルナの供給が遅れていたために,早く打てるアストラゼネカを選んだ人もいるし,副反応が小さいという情報もあったのでそのためにアストラゼネカを選んだ人もいる。

 Twitterなどでは,アストラゼネカのワクチンが危ないから献血できないのだなどという「誤った情報」も流されている。早く献血できるようにしないと,インチキ情報が徐々に拡散されるおそれもある。

 

 検討すべきことがたくさんあって後回しにされているのかと思うが,とにかく早く対応してほしい。また,マスコミが全然このことを取り上げないのも不信感を煽る結果になっている。正確な情報を,速やかに国民に知らせるべきだ。

 

 

【追記】

 2022年4月1日から,アストラゼネカ製のワクチンを打った人も,6週間たてば献血できるようになった。

 6週間というのは長いが,いずれ短くなるのだろうか。もっとも,もう日本ではアストラゼネカ製はm RNAワクチンにアレルギーがある人以外は打つことがないだろうけど。

 新しくノババックスのワクチンが承認され,早ければ5月下旬から出回るようであるが,献血はできるのだろうか。今のところ情報はない。

 

 

サブスクで完全に変わった音楽生活②

 ①を書いてから随分経ってしまった。

 このままだと年を越せないので,とりあえずまとめておく。

 

 2021年は本格的にサブスクを利用するようになった1年だった。①で書いたような音楽生活がまるっと変わってしまったと言っていい。

 

 まず,エアチェックをしなくなった。サブスクに移行するのにあたり,MUSIC BIRDを解約した。このおかげで,エアチェックしてパソコンに取り込むまでの作業時間が大幅に減り,音楽を聴く時間が増えた。

 

 次に,CDを買わなくなった。サブスクで聴いたりして,本当に必要なものだけ買うようにした。最新録音の多くはハイレゾで配信されているので,音質の劣るCDを買うことは躊躇するようになってしまった。

 CDなどのメディアを持っていたという欲求は相変わらず強いが,ハイレゾじゃないのに,とは思うようになってしまった。

 

 そして何と言っても,聴いてみたい曲の多くがすぐ聴けるようになったのが大きい。雑誌やネットで聴いてみたい曲を見つけても,これまでは簡単には聴けなかった。すぐCDを買うというのはよほどの場合であって,まずはMUSIC BIRDやFMで放送されるのを待つしかなかった。最新録音だと放送される可能性は高いが,古い音源だといつ放送されるか分からず,結局聴けずじまいで終わることが多かった。

 しかし,サブスクだと,あればとりあえず聴ける。目的のCDでなくても,同じ曲なら聴ける可能性はかなり高い。

 

 

 とにかく,音楽を聴く時間が増えた,というのが結論だ。

 これから先,CDを買いためたところでどれだけ聴けるかは分からない。それよりもサブスクで聴きまくった方がいい。音質だって,FMからカセットテープに録音していた頃に比べれば,天と地の差がある。

 

 もう,戻れない。サブスクは最高だ。