水の反映

 ドビュッシーの《映像》第1集の第1曲は,一般的に〈水の反映〉または〈水に映る影〉と訳されている。この曲は,ドビュッシーの曲の中でも特に好きな曲で,5本の指に入ると言ってよい。したがってよく聴くのだが,〈水の反映〉というタイトルにはずっと違和感があった。

 違和感というより,意味不明感とでも言った方がいいだろう。皆さん,〈水の反映〉と言われて意味が通じるのだろうか。〈水に映る影〉なら分かる。しかし,〈水の反映〉というのは,日本語としてもおかしいのではないか。

 

 音楽之友社レコード芸術やその別冊など)では〈水の反映〉を使っている。なので,自然と〈水の反映〉を多く見かけることになる。ただし,音楽之友社から出ている「作曲家◎人と作品シリーズ ドビュッシー」(松橋麻利著)では〈水に映る影〉を使っている。

 ドビュッシーの研究者としても有名な青柳いづみこさんも〈水の反映〉だ(「ドビュッシーとの散歩」中公文庫 118ページ参照)。

 レコード会社はどうか。ドイツ・グラモフォンは混乱している。ベネデッティ・ミケランジェリ盤では〈水に映る影〉,チョ・ソンジン盤では〈水の反映〉としている(いずれも,ホームページでの表記)。

 NHKは〈水に映る影〉を使っているようだ。直近では,BS4Kでこの5月に放送された小川典子のリサイタルでの表記がそう。2010年放送の「名曲探偵アマデウス」でも,〈水に映る影〉としていた。

 

 〈水の反映〉がおかしいと感じる理由は,水「の」反映としているからだと思う。

 「反映」とは,辞書では次のように説明されている(一部を抜粋)。

広辞苑 第七版】

①光が反射して像ができること。
②色などがうつりあって美しさを増すこと。「夕日が湖に―する」

 

大辞林4.0】

①光や色が反射してうつること。「木々の緑が湖面に―する」
②色や光が互いにうつり合って,美しくはえること。

 

大辞泉(8)】

1 光や色などが反射して光って見えること。「夕日が雪山に―する」
2 対照的に色がうつり合って美しさを増すこと。「壁と床(ゆか)の色が面白く―し合っている」

 

明鏡国語辞典 第二版】

①光や色が反射してうつること。また、うつすこと。「夕日が川面に━する」
②光や色がうつり合って、輝きを増すこと。
「もろ肌を脱いで石鹼で磨き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬(ちりめん)の羽織と━している〈漱石〉」

新明解国語辞典 第七版】

(一)<どこ・なにニ反映する>
何かの光を受けた面が(その光を映して)光って見えること。
〔反射と同義で使うことも まれではない〕
「夕日が△雪山(窓・池)に反映する」
(二)<なにニ反映する>
他の色との取り合わせがよくて、その色が一段と美しく見えること。

 

三省堂国語辞典 第七版】

①〔文〕反射して目に見えること。
「夕日が━する」

 

日本国語大辞典 精選版】

① 光や色が反射して光って見えること。
② 色などがうつりあって美しさや輝きなどを増すこと。

 

以上を見れば明らかだと思うが,新明解にははっきりと書いてある。つまり「何に」が必要なのに,〈水の反映〉だとそれがないのだ。

 ドビュッシーは,あえて「○○が」を明らかにしていないと思われるので,具体的なものを書けないのは当然だと思う。

 しかし,「反映」という言葉を使う以上,「○○が水に反映する」としないといけないのにそうなっておらず,かつ,「の」がどういう意味で使われているのかがはっきりしない。そのまま読めば,「水が何かに反映する」としか読めない。これでは意味不明となるに決まっている。

 

 一方,〈水に映る影〉はどうか。

 ここでポイントになるのは,「影」だろう。通常使われる,「物体が光をさえぎったとき、光と反対側にできる黒い形」(明鏡国語辞典 第二版)の意味では使えないのは明らか。もう一つの意味である「光の反射で、水面などにうつる物の形。「池にうつる山の━」」(同)のことであれば,十分意味は通る。

 もちろん,ほかの辞書にも同じような説明がある。これならよく分かる。

 別に,〈水の反映〉に比べて(言葉として)何かが劣るという感じはしない。

 

 ところで,この曲は元々フランス語で「Reflets dans l'eau」という名前である。フランス語は分からないのだが,プログレッシブ仏和辞典第2版によると,「reflet」とは,「(鏡,水などに映る)影,像」とある。

 まさに,〈水に映る影〉そのままではないか。

 

 

 今回改めて調べてみて,〈水の反映〉と書いてあるのを見ると今まで以上に気持ち悪くなるようになってしまった。頭の中で〈水に映る影〉と変換して読むしかない。

 

 

 ちなみに,音楽之友社から出ている「作曲家別 名曲解説 ライブラリー⑩ ドビュッシー」の〈水の反映〉の解説(村井範子)には,こう書いてある。「繊細なアルペッジョの美しさは,絵画的に光と陰とにつながり,水の反映が輝き,かつゆれ動く詩的な情緒をつたえる。急速な動きをもって流れる楽句は,水に映る細かな波のささやきまでも表現している

 「水反映が輝」くとは,どういうことなのだろうか。

 

 

映画「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」

 映画「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」を見た。

 元になっている機動戦士ガンダムTHE ORIGINは,「前夜 赤い彗星」をアニメで見ただけで,漫画は一切読んでいない。

 「赤い彗星」を見て感じたとおりの違和感だらけの作品だった。

 

 設定がいろいろ変わるのはしょうがないとしても,富野由悠季監督の世界観とはあらゆる面で違いすぎる,というのが違和感の一番の理由だと思う。

 もし,同じストーリーで富野監督が制作していたら,全く違った作品になったのは間違いない。キャラクター,メカ(の動かし方),そして世界観,全てが違いすぎる。

 初代ガンダムや最新作のGのレコンギスタと見比べれば,すぐに感じられると思う。

 

 まず,キャラクターだが,セリフから動きから,いちいち大げさで,わざとらしい。富野ガンダムと性格を変えている,といったレベルではない。全員が同じように大げさでわざとらしいのだ。こういう演出は,富野監督は嫌うと思う。これは,ガンダムの世界ではない。

 

 メカの動きも違和感だらけだ。全体の造形が,富野ガンダム(大河原ガンダムと言うべきか)と随分違う。まるで違うアニメを見ているかのようだ。そして,最近のガンプラでも見られる,例えばガンダムの方に描かれている「EFSF」などの文字やマーク。富野監督は,こういうのをあえて排除しているように思うのだが,これだとやはり別物に見える。まるで,ガンプラバトルのようだ。そして何より,動きがおかしい。いかにもCGですよ,といった感じの動きは,富野監督は絶対やらない動かし方だ。戦艦の動きもそう。すごく安っぽく見える。

 

 ストーリー面では,ドアンがなぜ子供達を連れてあの島に住んでいるのかが,イマイチよく分からなかった。テレビ版での,ごく短い説明の方が,はるかに説得力がある。というか,想像力で勝手に補わされてしまうのだ。しかし,映画では,周辺の説明が多すぎるので,かえって想像力が働かなくなってしまい,結局,何だかよく分からないで終わってしまうのだ。

 その一方で,ブライトと連邦軍幹部とのやり取りなど,本筋とあまり関係のないどうでもいいエピソードが長々とあり,見る気をそがれてしまう。

 

 6月2日のNHKニュースウォッチ9でこの映画が取り上げられていて,「唯一変えなかったシーン」として,終盤でのアムロが「あなたの体に染みついている戦争のにおいが戦いを呼び寄せるんじゃないでしょうか。それを消させてください」と言ってドアンのザクを海に投げ捨てるシーンを紹介しているのだが,テレビ版ではすごく説得力があるのに対して,映画ではアムロのセリフが非常に唐突に感じられた。

 思うに,テレビ版では,ごく短い放送時間なのに,アムロとドアンの間に濃密なやりとりがあって,信頼関係が築かれていったことが示唆され,アムロがドアンのことをよく理解した上であのセリフと行動が出てきたように思わせられるような展開になっているのに対して,映画では,尺ははるかに長いのに,アムロとドアンの関係が今一つ希薄で,そこまでアムロはドアンのことを理解しているのか分からないうちに,あのシーンが突然やってくるように見えてしまうのだ。

 それはおそらく,マルコスというテレビ版にないキャラクターに,アムロとの絡みのほとんどを担わせてしまったことと,テレビ版ではあの島にいなかったカイ,ハヤト,スレッガー,セイラが現れたりしたことと関係あると思う。

 いろいろ説明しすぎて,かえって見る者の想像力をそぎ,重要な場面での印象を弱めてしまうという,最近のアニメの弱点(問題点)を露呈した作品になったように思う。

 

 あまり書きたくないが,声優の問題も大きい。

 既に亡くなってしまった方もおり,やむを得ないのだが,テレビ版と同じなのはアムロ,シャア,カイくらい。

 それで,アムロ古谷徹さんなのだが,声はいまだに若々しく,アムロ以外の何物でもないのはさすが。しかし,ろれつはだんだん怪しくなってきていて,大げさな時代劇みたいな物言いになっているのは残念だ。

 もう一人気になったのは,ブライト。かなり鈴置さんを意識しているようで,声を無理に作りすぎ,不自然さが際立ってしまっている。

 ほかの方たちは,コメントする気にもならない。声優さんの変更というのはものすごく大きなことなのだ。それが,本来の声優さんがアムロとシャア(登場は一瞬だけだが)だけとは・・・。リメイクする意味があるのか考えてしまう。

 

 最後にはっきり言いたい。ファーストガンダム作画監督を務めた安彦良和さんの作品であり,「THE ORIGIN」を名乗るこのシリーズだが,富野ガンダムとは世界観から何から全く別物だ。ファーストガンダムをきちんと見ていない方は,これが本物だとは決して思わないでほしい。

 

 

 さて,7月と8月には,富野監督のGレコのⅣとⅤが続けて上映される。

 結末は,テレビ版とは随分変わるという噂もあるが,どうなるか,楽しみであると同時に不安も大きい。

 またZガンダムの映画版のように「やっちまう」ことがないよう祈っている。

 

 

ブラタモリを見て

 先週のブラタモリを見て,考えてしまった。

 この4月からアシスタントのアナウンサーが交代した。この日は日本の鉄道スペシャルということだったが,アシスタントの方がいろいろと余りにも知らなすぎる。正直,バカなのか,と思わせられるほど。その前の,デビューの回でもそうだったのだが,しかし,経歴を見ると,日本でも最高の私学の1つであるK大学の法学部を卒業されているとのこと。

 民放の女子アナならともかく,NHKのアナウンサーとなれば,みなさん非常に高学歴で,相当頭が良くないと入れないはず。前任の方もそうだが,こんなことも知らないのかと驚かされることが多かった。NHKのアナウンサーだよなと思って見ていると,笑えないことも多かった。

 

 知らないのは,演出じゃないのか,と思ってしまう。

 前々任者のときは,そこまで変だとは思わなかった。知らないことは知らないけど,別なところで多分に知性が感じられたから。その方が今,大活躍されているのは周知のとおりだ。

 タモリのすごさを引き立たせるためにわざとやってるなら,やめた方がいい。不自然ですぐバレる。

 タモリにも失礼すぎる。

 タモリのすごさは,高学歴の女子アナがちょっとやそこらで太刀打ちできるものではない。

 知ってるなら,知ってると言って,その上で素人目線に立って話を合わせてほしい。

 見ている視聴者もバカにされている気がする。

 

 

小澤征爾とオルフとマーラー

 4月になると,オルフの《カルミナ・ブラーナ》が聴きたくなるのである。

 定盤は,小澤征爾さんが1988年6月25日と26日にベルリン・フィルと録音したフィリップス盤(現在は,デッカ)。晋友会合唱団が日本から参加し,ソリストエディタ・グルベローヴァ(ソプラノ),ジョン・エイラーテノール),トーマス・ハンプソン(バリトン)という超豪華盤。

 当時はもっぱら晋友会合唱団の参加が話題となったように思うが,小澤さんの指揮とベルリン・フィルの演奏が圧倒的だ。これほどのパワーに溢れた演奏は,ほかに聴いたことがない。テンポを上げて加速するところが何箇所かあるが,そういう所でのテンポ感(総じて,ほかの演奏より速い)と重量感がすごい。打楽器の活躍する曲だが,どの楽器を取っても,ほかのオケとは音の質感が違う。

 声楽陣も全く隙がなくて,特にグルベローヴァは完璧。ハンプソンはまだまだ若手の頃で,素晴らしい美声を聴かせるし,エイラーもほかの演奏にありがちな皮相な感じがなくて,この演奏にぴったりだ。

 そして,ベルリン・フィルの録音にはまだ経験の少なかったと思われるフィリップスの録音がまた素晴らしかった。ブレンデルアバドブラームスハイティンクマーラーといったシリーズが始まってはいたが,グラモフォンとはまた違う,広い空間を感じさせ,分離がいいのに気持ちよく音が溶け合い,重量感にも欠けないという,不思議な録音。とにかく抜けがいい。本当に,EMIじゃなくてよかったと思う。

 小澤さんは,この後,1989年のジルヴェスター・コンサートに出演してこの曲を取り上げており,DVDでも出ている。このライヴも素晴らしいが,やはり完成度の高さと音の良さでは,CDの方が圧倒的だ。

 

 今年は,サブスクのおかげで,これまで聴いたことのなかった,小澤さんの旧盤(ボストン交響楽団との1969年の録音)のほか数種の録音を聴いたが,やはり小澤/ベルリン・フィル盤の絶対的優位は揺るがなかった。

 

 個人的には,この頃(80年代後半から90年代初頭)が小澤さんが一番輝いていたと思っている。この後,ボストン交響楽団を辞め,サイトウ・キネンに軸足を移し,さらにウィーン国立歌劇場に行ったわけだが,(ご本人やサイトウ・キネンの関係者は絶対に認めないだろうが,聴く方からすると)覇気が失せてマンネリに堕し,かといって師匠であったカラヤンバーンスタインのような巨匠的な指揮者にもなれず(時代が悪かった,ということもあるが),体調不良もあっていつの間にか見かけなく(聴かなく)なってしまった。大変残念なことだ。

 ついでに言うと,ウィーン時代の活動が日本ではほとんど知られなかったことも大きい。この頃にウィーン・フィルと正式に録音したCDは全くないし,ウィーン国立歌劇場で上演されたオペラのCDや映像作品もほぼ皆無に近い。NHKなどのテレビで放送されることもほとんどなかった。一体なぜなのだろう。

 ウィーン・フィルについて言うと,ニューイヤー・コンサート以外のCDがほとんど出ない時期に重なるので,小澤さんの問題ではなかったのかもしれないが。CDが出ないだけでなく,HIPの一般化もあって存在意義が問われていた時期でもある。

 

 個人的な小澤さんのベスト3は,この《カルミナ・ブラーナ》と,1986年にボストン交響楽団と録音したプロコフィエフの《ロメオとジュリエット》と,1987年にボストン交響楽団と録音したマーラー交響曲第4番である。どれも,繊細でありながら覇気に溢れた素晴らしい演奏・録音だ。

 

 

 

 マーラーについては,4番はベスト盤として挙げたが,ほかの曲については実はかなり微妙だ。正直,小澤さんとマーラーは合わないのではないかと思っている。

 これもサブスクのおかげで,これまで聴けなかったマーラーの録音を少し聴いてみたのだが,やはりその思いを強くした。

 小澤さんのマーラー交響曲録音は,録音順に並べると次のようになる。

 

① 第1番《巨人》 ボストン交響楽団(1977年10月 グラモフォン)

② 第8番《千人の交響曲》 ボストン交響楽団(1980年10,11月 フィリップス)

③ 第2番《復活》 ボストン交響楽団(1986年12月 フィリップス)

④ 第1番《巨人》 ボストン交響楽団(1987年10月 フィリップス)

⑤ 第4番 ボストン交響楽団(1987年11月 フィリップス)

⑥ 第7番《夜の歌》 ボストン交響楽団(1989年3月 フィリップス)

⑦ 第9番 ボストン交響楽団(1989年10月ライヴ フィリップス)

⑧ 第10番~アダージョ ボストン交響楽団(1990年4月ライヴ フィリップス)

⑨ 第5番 ボストン交響楽団(1990年10月ライヴ フィリップス)

⑩ 第6番《悲劇的》 ボストン交響楽団(1992年1,2月ライヴ フィリップス)

⑪ 第3番 ボストン交響楽団(1993年4月ライヴ フィリップス)

⑫ 第2番《復活》 サイトウ・キネン・オーケストラ(2000年1月ライヴ ソニー

⑬ 第9番 サイトウ・キネン・オーケストラ(2001年1月ライヴ ソニー

⑭ 第1番《巨人》 サイトウ・キネン・オーケストラ(2008年9月ライヴ デッカ)

 

 これを見て分かるのは,1989年の第9番以降,ライヴ録音になったことである。ここが1つの分かれ目になっていると思う。ボストン交響楽団とのものは,第10番を除いて拍手入りのライヴ録音となっている。つまり,グラモフォンなどでよくやっていた,ゲネプロや修正パッチも含めた,本当にライヴ録音かよく分からないライヴ録音ではなくて,無修正に近いと考えられるのだ。単に拍手が入っているだけでなく,会場ノイズも結構入っているし,何よりミスや傷がそのままにされていることからも,それは分かる。はっきり言ってしまうと,小澤さんの頃のボストン交響楽団は,ほかのアメリカのオケ(シカゴ,ニューヨーク,フィラデルフィアクリーヴランド,ロス・アンジェルス,サンフランシスコなど)と比べると,かなり劣っていた。特に金管の非力ぶりは際立っていた。ほぼ無修正のライヴで,マーラーをCDとして出すには,そもそもかなり無理があったと言わざるを得ない。

 ちょうど,レコード会社の経営が厳しくなってきて,安易なライヴ録音が増える時期にかかってしまったのは,何とも不幸なことだった。当時,フィリップスでは,ハイティンクベルリン・フィルマーラー交響曲を録音しており,こちらは(演奏会に絡めてだが)全てスタジオ録音だった。小澤さんも,頑張って掛け合えばスタジオ録音で続けられたのでは,と思うのだが,無理だったのだろうか。

 ということで,小澤さんのマーラーシリーズは,スタジオ録音とライヴ録音で大きな差が出てしまう,非常に残念なものとなってしまった。

 もっとも,ハイティンクの方はその後8番と9番(《大地の歌》も)を残して頓挫し,フィリップス自体が消滅してしまうことになるのだが。それに比べれば,全集として完成できただけでも良しとすべきか,不完全なものを残す方が残念だと考えるかは,難しい問題だ。

 

 いずれにせよ,小澤さんのマーラーはかなり独特で個性的なもので,ボストン交響楽団の個性(?)も相まって,繊細極まりない演奏となっているのが特徴と言っていいと思う。

 ただし,それがマッチしているのは第4番くらいで,あとは聴かずもがな,と言いたくなる演奏だった。もちろん,小澤さんのマーラーが多くの人から評価されている(た)のは分かっているが,自分にとっては,そういうことだ。

 

 

 その小澤さんだが,かなり体調が悪いらしい。

 今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルでも,小澤さんの登場は告知されていない。そもそも,指揮台に立ったのはいつ以来になるのだろう。

 なおさら,ウィーン時代の録音・映像が残されていないことが残念でならない。これから商品化できるようなものは残っていないのだろうか。

 この3月には,女性誌に家庭内不和についての記事も掲載された。本当かどうかは分からないが,残念でならない。もう指揮はできないのだろうか。

 

 音楽家演奏家)の最後について,つい考えてしまう。

 頭がはっきりしているのに,体が言うことをきかず,演奏できないというのは,何とも辛いことだろう。

 カラヤンのように,全く突然逝ってしまう方が,本人にとっては幸せだろうか。さらには,シノーポリのように演奏中に逝ってしまうのはもっと本望か。

 長生きして,やり切ったと引退表明してその後穏やかな日々を過ごした後亡くなったハイティンクのような人生が,一番幸せだろうか。

 

 

サブスクの弱点

 もはやサブスク中心の音楽生活になり,CDは本当に欲しいものしか買わなくなって久しいが,「だからサブスクは信用できないな」という事態に遭遇した。

 

 今はAmazon Music HDを中心に,Spotifyを併用しているが,しばらく前に,クルレンツィス指揮のベートーヴェン交響曲(第5番と第7番)がAmazon Music HDから消えてしまった

 Spotifyでは配信しており,CDも廃盤になっていないようなので,何らかの事情でAmazonとの契約から外れたようだが,特に第5番はかなり話題になった録音で,今でも聴きたい人は多いと思うので,非常に驚いた。

 いつ聴けなくなるか分からないのがサブスクの問題点だという指摘は早くからされていたところだが,話題盤がこんなにも早くなくなるというのは意外だ。

 Amazonソニーの問題なのか,クルレンツィスの方の問題なのかも分からないし,たしかロシアのクリミア侵攻より前から聴けなくなっていたと思うので,それは関係ないと思う。

 

 

 クルレンツィスの話とは別に,むしろサブスクの方がCDを買うより有利な点もある。ハイレゾで聴けることだ。

 最近の録音だと,通常のCDでしか出ていないものが,サブスクだとハイレゾ(とDolby Atomos)で聴けるのが普通になっている。

 SACDで出ているものもあるが,SACDリッピングできないので外で聴くのには向かない。ユニバーサルが出しているBlu-ray Audioもまたリッピングできない。Blu-ray Audioを高音質で普通に再生できるようなユニバーサルプレーヤーはほとんど出回っていないので,どういう需要があってこういう出し方をしているのか,疑問でしかない。

 それなら,ベルリン・フィルが出しているように,CDを買うとハイレゾ音源がダウンロードできるようにしてくれた方がはるかにいい。

 これではますますCDを買わなくなってしまう。音楽業界が生き残っていくためにはCDを買わないとと思うのだが。困ったものだ。

 

【追記】2022.4.19

 Amazon Music HDでクルレンツィスのベートーヴェン(第5番,第7番とも)が復活していた。クレームが多かったのだろうか。

 それもあるが,少なくともクラシックについては,AmazonよりSpotifyの方が聴きたい曲が見つかるし,検索の精度も高い。

 

 

ニューイヤー・コンサート2022と《こうもり》序曲の謎(続き)

 前回この記事を書いてから,このブログにログインすらせずに放置していたので,大変失礼をしてしまったのだが,《こうもり》序曲の音の件について,とりてんさんが書いてくださっていた。

 

classic-cd.hatenablog.com

「手元のオイレンブルグのミニチュアスコアで確認すると、7小説目の1拍目のことと思われ、注釈があり「eの代わりにd」と書かれている。」

とのこと。

 

ところで,昨年のベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート(病気のペトレンコの代役でラハフ・シャニが指揮)でもこの曲が演奏されていて,こちらでは「e」の音が演奏されていた。

まだウィーン・フィル以外では必ずしも「d」の音で定着したわけではないということか。

 

この手の有名曲は,(テレビで放送されるような)コンサートでもCDでも取り上げられることが少なくなってしまったので,比較するのが難しい。

Amazon Musicで検索しても,おそらく本当はもっとたくさん配信されているのだと思うが,あまり引っかからない。しかも,古い演奏ばかりばかり。

 

いずれにせよ,ベルリン・フィルが違和感たっぷりの方でない音で演奏していたのは,気分がよかった。

 

 

ニューイヤー・コンサート2022と《こうもり》序曲の謎

 今年,2022年のウィーン・フィル,ニューイヤー・コンサートはバレンボイムの指揮だった。

 例年以上に,有名曲が少なかったように思う。曲目は指揮者が決めるのではなくウィーン・フィル側で決めるらしいので,バレンボイムのせいではないのだろうが,それにしても,という気がする。有名にならないのには,それなりに理由があるのだ。

 バレンボイムの指揮には全く期待していなかったので,まだ全部見て(聴いて)いないのだが,一部の曲を聴いただけで,もう聴かなくていいや,と思っている。

 有名曲の方が分かりやすいので,まずは《こうもり》序曲を聴いたが,案の定だった。なぜこの人が指揮者としてもてはやされているのか,全く分からない。アンサンブルは悪いし,リズムは悪いし,元気はないし。音に力がない。相変わらず,腕が硬い。ニューイヤー・コンサートなので,オケに任せて振らない場面も多かったが,それでもやはりつまらない。

 ピアニストとしては最高だったのに。

 そのピアノも,さすがに最近はテクニックの衰えが目立って,聴くのが辛いことも多くなった。昨年出たベートーヴェンソナタ全集は,かなり聴くのが厳しかった。1980年代の全集はあんなに素晴らしかったのだが。

 

 

 さて,《こうもり》序曲なのだが,冒頭でヴァイオリンの音が変わっているところがあり,音が外れているように聞こえるのだが,話題になってないように思う。

 ニューイヤー・コンサートでこの曲が取り上げられたのは,1989年のクライバーの後は2002年の小澤征爾まで間が空くのだが,この間にウィーン・フィルの使っている楽譜が変わったようだ。

 小澤征爾が振った2002年のときのCDでは[0:08]のところである。クライバー以前(カラヤンアバドなども)では違和感はないのだが,小澤以降の演奏では,音を外しているかのように聞こえるのだ。おそらく,自筆譜などを検討した結果なのだろうが,違和感しかない。ベートーヴェンの第九の第1楽章第2主題の音の問題にも通じるように思う。

 1987年録音のアーノンクールの全曲盤では,既に新しい方(と言っていいのか分からないが,違和感がある方)の音になっている。

 小澤のときは過渡期だったのか,「ほんとにこの音でいいのか?」といった感じで,萎縮しているかのような中途半端な弾きぶりだったが,今年はもう慣れたのか,みんな確信を持って弾いているように聞こえた。

 しかし,何度も言うが,聴く方からすると違和感しかないのだ。

 音楽学的には新しい方が正しいということになっているのかもしれないが,音楽的にはおかしいと思う。だからこそずっと古い方の音で演奏されてきたのだろう。

 楽譜から,何小節目の何の音,と特定して検索すれば何かしら情報が出てくるのかもしれないが,ざっと調べたところではそれらしい記述は見つからなかった。

 レコ芸相談室もなくなってしまったし,相談できるような詳しい人も身近にいないので,このもやもやはずっと続きそうだ。