今年の1月20日に,クラウディオ・アバドの没後10年を迎えた。
残念ながら,ほとんど話題になっていない。寂しすぎる。
グラモフォンもソニーも没後10年企画の動きは見えない。
冷淡なことだ。
未発売の音源を,CD化,ブルーレイ化してほしい。
3月25日にNHK BSとBS4Kのプレミアムシアターで放送される,1992年の来日公演の放送は,没後10年と関係あるのだろうか。ぜひ,続けて貴重な音源の公開を進めてほしい。
ほかの指揮者も結局はそうなのだと思うが,やはり大編成のオーケストラを指揮するのが本当は一番好きだったんだろうなと思う。
例えば,1999年のベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートなどを見ると,今ではまず見ることができない,ベートーヴェンの7番を倍管のフル編成で楽しそうに振っている様子が見られる。ウィーン・フィルとの全集の頃はまだ倍管が当たり前だったろうし,当然,《英雄》の第1楽章の終わりのところでは,(元々の)楽譜にないトランペットが鳴っている。
室内管弦楽団や古楽器オーケストラの指揮者が,歳を取ると大編成の現代オーケストラを振り出すのも,分かる気がする。みんな,そういうのが好きなのだ。聴く方だって。
そういう意味で,指揮者にとっても,オーケストラにとっても,聴衆にとっても,窮屈で退屈な時代になってしまった。
《英雄》でトランペットを思いっきり吹かせられるのは,もうコバケンくらいの大御所にならないと無理なのだ。やりたくても,バカにされてしまうことを恐れてできない。ティーレマンはウィーン・フィルとの全集で吹かせていたが,音が小さく,かえってみっともなくなっていた。
ラトルも,ロンドン交響楽団との第九では,倍管で演奏させていた。彼もやはり大編成のオーケストラを指揮するのが好きなのだ。もっとも,倍管にする必要があったか疑問な演奏ではあったが。
今度のNHKの放送では,倍管フル編成現代配置のアバドと,古典配置でオケの人数も少なく,ステージ上がスカスカのペトレンコの演奏を比較することができる。
もちろん,ペトレンコの演奏も壮絶なものだったが,あれをアバドのときと同じオーケストラで聴いてみたかった,と思わずにはいられないところもある。
また時代の揺り戻しはあるのだろうか。もう,ないような気はする。
話はそれてしまったが,これからアバドの没後10年企画はあるのだろうか。レコ芸があったら,絶対やったと思うが。
そのレコ芸だが,クラウドファンディングの話はどっかに行ってしまったものの,2月28日に「ONTOMO MOOK レコード芸術2023年総集編」というのが出るそうだ。
付録でレコードイヤーブックも付くというので,とりあえず買うしかない。
定価1,980円という値段に見合う内容かどうかは買ってみないと分からないが。
しっかり宣伝して,これまでの読者にたくさん買ってもらわないといけないが,宣伝費がないのか,全然話題になっていない。レコ芸の読者のお年寄りはネットなんか見ないのだから,何とかしないと。
本屋では売ってないと困るので,とりあえずネットで予約しておくことにしよう。