なかにし礼の『音楽への恋文』

 クラシック音楽を聴くようになったばかりの頃に読んで大きな影響を受けた本に,なかにし礼著『音楽への恋文』というものがある。1987年に共同通信社から出たエッセイ集で,その後新潮文庫から『音楽の話をしよう』と改題されて出ていたが,現在はどちらも絶版のようである。

 そのエッセイの中で,非常に心に引っかかっているものがあるので,書いておく。

 

 それは,「ユダヤ音楽祭」というエッセイである。内容は次のとおり(ここで言いたいことに関係ない部分は割愛する)。

 年は明らかでないが,なかにし氏がCDプレーヤーを買った年の8月21日のこと。神奈川県民ホールにズービン・メータ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会を聴きに行った。曲は,ブラームス交響曲第4番,ブロッホヘブライ狂詩曲《シュロモ》,ワーグナーの《ニーベルングの指環》抜粋。当時メータは48歳。

 1曲目のブラームスが気に入らなかった。まず,メータの腕と指の動きが気にくわない。軽薄で,品がない。そして,いい音は鳴っているが,何も感じない。メータには繊細さ,思想性,哲学性…が欠けている,と思う。

 一方,ユダヤ人作曲家による《シュロモ》は,ブラームスとは魂の入れ方が違い,違いすぎて不愉快なくらい。指揮は入念であり,演奏はこまやかであり,クライマックスは星空に燃えあがる炎のような情熱のほとばしりを見せる。…(中略)…久方ぶりに,音楽を愛する人間で良かったと思った。音楽をやるとはこういうことであり,音楽を聴くとはこういうことだ。

 それに対して,ブラームスはなんだったのだ。君たちユダヤ人は古典音楽をもてあそんで,気の抜けた演奏を聴かせるのだ。古典音楽の衣でヘブライ精神の鎧を隠して,着々と勢力を拡大してきたのだろう。もはや,クラシック・イズ・ユダヤなのだ。そのおかげで,ブラームスが間抜けに見えて,ブロッホが賢者に見えたりするから,危険なのである。

 いっそ,第1回ユダヤ音楽祭というのを開いたらどうか。そのとき,世界は真っ白けに白けてしまうだろう。しかしユダヤ人たちは一堂に会しないだけで世界各地で,日ごと夜ごと,個別に,ユダヤ音楽祭を開き,ユダヤのにおいにみちあふれた音楽を振りまいている。

 

 その頃,なかにし氏と言えば,芥川也寸志氏,木村尚三郎氏とともにN響アワーに出演しており,初心者の自分にとっては神のような存在と言っていいほどであった。そのなかにし氏が上記のように書いていたら,信じるしかない。

 ということで,これを読んでからは,ドイツ音楽,特にベートーヴェンブラームスブルックナーを聴くときには,その演奏家ユダヤ人かどうかということばかり気にするようになってしまった。そして,可能な限りユダヤ演奏家によるものは避け,たまたま聴いていいなと思っても,これは偽物なんだと思うようになってしまった。

 何と言うことだ。

 今なら,こんな暴論は鼻で笑える。じゃあ,イタリア人のやるドイツ音楽はどうなんだ,とか,具体例を挙げていくらでも反論・反証できる。いや,そもそも今ならこんなエッセイは出版できないだろう。しかし,当時はそうは行かなかった。この呪縛から逃れるには,随分と時間がかかった。しかも,ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターのように,おそらく間違ってユダヤ人と書かれていた人もいて,更に迷惑したのであった。

 思い出してみると,あの頃,今より遥かに情報が少なかったにもかかわらず,なぜかある音楽家がユダヤ人かどうかというのはすぐに分かった。雑誌やその増刊号のようなもので音楽家のプロフィールが載る場合,ユダヤ系だと必ず「ユダヤ系○○人」と書いてあったからだ。今はあまりそういう表記は見ないように思う。とすると,なかにし氏に限らず,クラシック音楽界において,その人がユダヤ系かどうかということをひどく気にする勢力があったということだろうか。もちろん,自分が気にならなくなったからかもしれないが。

 今でも時々,この呪縛に引っかかっていた頃を思い出し,おぞましい感じがするとともに,実にもったいない時間を過ごさせられたと,怒りを感じるのである。

 確かにメータのブラームスは良くなかったかもしれない。実際,CDやテレビなどで,メータのベートーヴェンブラームスを聴いて,いいと思ったことは,ほぼない。だからと言って,ユダヤ系の人のドイツ音楽が全部ユダヤ的で気が抜けていてつならないなんてことはない。ドイツ人指揮者のやるドイツ音楽だって,気の抜けたつまらないものはある。

 なかにし氏のおかげで,いちいち「血の正統性」ということにひどく拘るようになってしまった。ドイツ音楽に限らず,フランスものでも,ロシアものでも,何でも。この指揮者は何人か?ユダヤ系か?と。今は違うが,そのおかげで失った時間は,あまりにも大きかった。

 

 この本では,もう一つ,その後の音楽の聴き方に強い悪影響を受けたエッセイがある。「さらばカラヤン」というエッセイだ。

 このエッセイのおかげで,カラヤンのCDを聴いて素晴らしいと思っても,どこか引っかかるものを感じるようになってしまった。もっとも,ユダヤ系の人のやるドイツ音楽よりはずっと早くにその呪縛から逃れることはできたが。

 

 この本には,まさに音楽への愛に満ちたいいエッセイも入っているので,惜しいのだが,残念ながら,上記2つのおかげで,現在は悪本としてお蔵入り状態である。

 このブログを書くために,30年ぶりくらいで引っ張り出したが,読む気はしない。むしろ,「ユダヤ音楽祭」を改めて読んで,気分が悪くなった。今回,「さらばカラヤン」も読んではいない。かといって,古本屋に持って行くつもりもないのだが。

 それにしても,若い頃に読んだものの影響というのはなかなかに大きいものだ。それなりの人は,それなりの責任感を持って文章を書いてほしいと思った次第である。