レコード芸術2021年4月号

 「レコード芸術」の2021年4月号の特集は,「進化するショパン」。

 「今世紀に入って,新校訂譜の浸透,楽器や奏法をはじめとする歴史的情報に基づいたアプローチの研究が進」んだことから組まれた特集だという。

 まさにそのとおりだし,ショパンが特集で取り上げられたのは記憶にないくらいなので,タイムリーな企画だと思う。

 大いに期待したが,果たしてまたまたそれは大いに裏切られた。

 

 まず,「新校訂譜の浸透」という点については,もちろん触れられてはいるが,さらっと流して書いてある程度。

 読者としては,何か有名な曲と演奏(CD)を取り上げて,具体的にどういう違いがあるのかといったことを知りたいところだが,そんな記事はなし。

 

 「楽器や奏法をはじめとする歴史的情報に基づいたアプローチ」についても,仲道郁代さんのインタビューの中で多少ふれられていたり,NIFCレーベルの紹介でこういうCDがあると紹介されている程度。

 これもやはり,有名曲を取り上げて具体的にどこがどう違ってくるということを解説してほしいが,そういう記事はなし。

 楽器についても,今のピアノとの違いについて,構造や音色,奏法などいろんな角度からの分析ができると思うのだが,ほぼ説明はなし。

 

 そして,例によって執筆者任せなのがバレバレで,内容がかなりダブっている。

 例えば,「ライヴ録音でたどるショパン・コンクールの受賞者たち」と「ショパン演奏の名手たち そのピアニズムの系譜」の後半は内容がかなり共通しているし,ほかの記事ともダブる部分は多い。

 さらにひどいと感じたのは,各記事で紹介されている名盤で,ポリーニの12の練習曲が3回も出てくること。ほかにも複数出てくるCDがある。こんなのは見たことがない。

 

 結局,またまた企画倒れで中身の薄い特集になってしまった。

 編集者の力量の問題だと思う。

 

 

 新譜月評で取り上げられた中での注目盤はベルリン・フィルマーラー交響曲全集だと思うが,これについては3月号の「先取り!最新盤レビュー」で,広瀬大介氏が2011年にアバドが指揮した《大地の歌が入っていないことを嘆いていた。これは,アバドベルリン・フィルのファンは当然思ったことだと思う。このときの演奏は非常に素晴らしいもので,NHKで放送されたし,デジタル・コンサートホールでも見ることができる。

 アバドは《大地の歌》をCD録音していないので,そういう意味からも,この全集の発売に合わせてCD化することには大きな意味があったと思う。この全集は高くてなかなか手が出ず,買っていないが,アバドの《大地の歌》が入っていたら,すぐに買っていたかもしれない。そのくらいの名演だった。

 それがなぜCD化されなかったのか。

 カウフマンがノットとCDを出しているからとか推測はできるが,ファンが当然疑問に感じるようなことを取材して明らかにするのがレコード芸術のような雑誌の使命なのではないか。

 3月号で広瀬氏が疑問を呈されたのだから,取材して,4月号で答えるべきだった。

 

 そうでなくても,もうずっとそうだが,インタビューにしても海外楽信にしても,掘り下げられた濃い内容のものは稀になってしまっている。

 もっと突っ込んだインタビューや取材をした結果を読ませてほしい。

 

 

 ついでに,ベルリン・フィルマーラー交響曲全集について少し書いておく。

 正直,今,この中でお金を出しても欲しいと思っているのは,ペトレンコ指揮の第6番だけだ。演奏は実に素晴らしい。一つだけ気に入らないのは,第2楽章をアンダンテ,第3楽章をスケルツォとしていること。

 これは,ペトレンコもかなり悩んだのではないかと思われる。というのも,第1楽章と第2楽章の間に非常に長い間を置いているから。やはり,曲想からは,第2楽章にスケルツォを持ってくる方がしっくり来ると思っているからだと思う。とはいえ,最新の研究も無視できず,というところだろうか。

 今後また研究が進んで,やはり第2楽章はスケルツォマーラーの意図するところだった,なんてなることもあるかもしれない。そうなったら,第2楽章はアンダンテだと言った研究者の罪は重い。

 個人的には,スケルツォ-アンダンテの順で演奏する方がいいと思う。そして,第1楽章と第2楽章,第3楽章と第4楽章はアタッカで演奏するのがいい。

 特に,あのアンダンテの後,すぐに第4楽章が始まると,何とも言えない感じがする。スケルツォの後では,ある程度間を置かないとしっくり来ない。

 最近の録音でも,クルレンツィスは,スケルツォ-アンダンテの順で演奏している。やはり,そうしないと違和感を感じる演奏家は多いのではないかと思う。

 かつて,諸井誠氏は,第1楽章とスケルツォは実質的に一体であるとして,3部構成のシンメトリー構造になっていると指摘していた。そのとおりだと思う。実際に聴いてそう感じるのだ。シンメトリカルな3部構成という構想と,古典的な4楽章構成という構想のいわば妥協の産物がこの交響曲だったのではないかと思う。おそらく,マーラーもどういう順番にしたらいいか,かなり悩んだのではないかと思う。もし,マーラー自身が何度もこの曲を演奏する機会を得ていたら,最終的にはスケルツォ-アンダンテの順にしたのではないかと思う。

 

 もう一つ,ハイティンクの第9番について書いておく。ハイティンクは,1980年代の終わりから1990年代にかけて,ベルリン・フィルマーラー交響曲全集を作ろうとしていた。それが,フィリップスにリストラされ,第8番,第9番,大地の歌の3曲を残して頓挫してしまったのはよく知られているところである。

 今回,全集に入れられた2017年の第9番は,その穴の一つを埋めるものになるとの期待も大きかったと思われる。

 しかし,聴いてみて,そうはならなかったと思った。

 フィリップスに録音した第1番から第7番までは,非常に素晴らしいできだった。特に第1番,第2番,第5番,第6番がお勧めである。

 やはり,構成がしっかりした曲の方ができがよく,ある意味ハチャメチャな曲である第3番と第7番は面白くなかった。第4番も真面目すぎて今ひとつ。

 今回の第9番はその頃からだいぶ時間が経っており,同列に語れる演奏では全くなくなっていた。

 まず,ベルリン・フィルがすっかり変わってしまっている。ハイティンクの非常に遅いテンポを完全に持て余している。音の重量感がかなり減ってしまっているのでなおさらだ。

 ハイティンクも,20年前ならもう少しテンポも速く(特に中間楽章),ダレずに演奏できたと思うが,今回は完全にダレてしまっている。第3楽章など,演奏時間ではクレンペラー並みなのだ。それを持たせるだけの力が,もはやハイティンクにもベルリン・フィルにもなくなっていた。

 かえすがえすも,あの当時に全集として完結しなかったことが残念でならない。