レコード芸術2020年5月号「新時代の名曲名盤500①」

 また始まってしまった。こないだやったばっかりじゃないか,と思ったら,前回は2014年5月号からだったというから結構前だが,完結したのが2016年4月号。その後MOOKが出て,さらに2017年11月号と2018年5月号に補遺のような企画があったので,やはり感覚的にはつい最近やったばかりだ。

 やったばかり感が強いのにはもう一つ理由があって,前回と作りがほとんど変わらないため。レイアウトがほとんど同じ。違うのは,前回までは10人で選んでいたのが8人に減ったこと。経費削減か。あるいは後述のように票がばらけすぎて収拾がつかなくなるからか。

 

 もういい加減やめらいいんじゃないかと,前回よりも前から思っているのだが,やめられないのだろう。

 やめた方がいい理由は,あまりにも票がばらけすぎて,「名曲名盤」のランキングとは言えなくなってしまっているから。

 そのことは,心ある人は思っている(た)のだろう。ついに,選者・執筆者自身がカミングアウトしてしまっている。

 今回の44ページ,ブラームス交響曲第1番のコメントで,1位のガーディナーが3人,2位のカラヤンが2人から票を得ただけで,後は全部1人しか票を入れていないという状況(結果,順位は1位,2位,3位,9位,15位となっている)に対し,増田良介氏が「もうランキングの体をなしていない」と書いてしまった

 よくこの1文をそのまま載せたなと思う。完全なる自己否定だ。編集部がきちんとチェックしていないのか,編集部事態がそう思っているのか。何せ,ランキングの体をなしていないのはこの曲だけでなくて,ほとんどの曲がそうなのだから。

 この手の企画を欲しているのは,おそらく,クラシック音楽初心者で,これから,名曲名盤と呼ばれるものから聴いていこうとする方たちだろう(自分も昔はそうだった)。それなのに,こんなランキングでは,本当にまず何を聴くべきなのか,およそ信用できない。初心者向けのガイドとしては全く役に立たないということだ。一方,レコ芸の長年の読者には,もはやこんな企画は不要なはず。

 上位に選ばれているCDも,初心者がまず聴くべきものとしては疑問なものが多い。

 ということで,もうやめるべき時期なのだろう。編集部も本当はやめたいのではないか。読者の反応を見て,これを最後にしようと思っているのではないか。だからあえて手抜きとも思えるような編集をしているのではないか。

 増田氏には,あえて書かせたのだろうか。まさかそこまでするとは思えないが。あるいは,増田氏には最後の良心が残っていたということか。「ランキングの体をなしていない」と書いてしまった後の増田氏の文章には力がない。それに対して,したり顔で御託をこねている矢澤氏の文章が何とも滑稽に見える。

 どうぞ,もうやめてください

 途中で打ち切り,というのもいいのではないか。黒歴史として,レコード芸術の歴史に残るだろう。

 

 さて,ランキングを見て思うのは,「ファウスト祭り」だなということ。もちろん,ヴァイオリニストのイザベル・ファウストのことである。

 ヴァイオリンの曲は,ほとんどがファウストのCDが1位になった。1位じゃないのは,そもそも録音していないブルッフを別にすると,バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番(1位はコパチンスカヤ)とブラームスのヴァイオリン・ソナタ(1位はクレーメル)だけで,それでも両曲ともファウストは2位だ。「まさに旬」と普通なら言うところだが,好きなヴァイオリニストではないので,そう素直には言い難い。

 いつもそういう演奏家がいるものだが,今だとこの人を1番に挙げておかないと(バカにされる?)という人がいる。今はファウストがそうなのは間違いない。評論家がこぞって絶賛するのは,まずはこの人だろう。

 だが,なぜそんなに持ち上げられるのか,正直分からない。ここではあえて具体的にけなすのはやめておくが(いつか書きたい),謎だ。この後もずっと彼女の録音が名盤として残っていくのかには注目したいと思っている。

 

 

 月評を読んでいて一つ気になったので書いておく。

 協奏曲の岡部真一郎氏の評なのだが,複数の曲が入っているCDで,曲を示すのに,なぜか「○長調協奏曲では」とお書きになる。これだと,どの曲を指しているのか,巻末の一覧表を見ないと分からないのだ。何とも不親切だし,そう書く意味も全く分からない。学者先生なので,番号で書くのは下々の者のすることだとか,何かこだわりがおありなのであろうか。論文じゃないので,そんな書き方をする必要は全くないのに。

 例えば,1つ目のシラノシアンのタルティーニだと,2つ目の段落で「…とされているニ短調協奏曲では」と書かれているが,月評のページには調性は書かれておらず,作品番号しか書かれていないので,作品番号を書いてくれないとどの曲のことを書いているのか分からない。後から「もう一つのニ短調,後期のD45」とは書いているが,それならなぜ最初のニ短調の作品番号は書かないのだろう。

 次のリシャール=アムランのモーツァルトもそう。第22番が「変ホ長調」だと知っている人はいいが,知らない人だとどっちの曲のことを書いているのか分からない。収録順に書くとは限らないのだから。後から「続くハ短調協奏曲では」との記載が出てくるので,変ホ長調が第22番の方だという推測はできるが,こんな書き方だと,最後まで読んでもう一度読み返さないと何の曲のことを書いていたのか分からないということになる。別に,「第22番」「第24番」と書けばいいだけ(もう一人の相場氏は,当然そういう書き方をされている)。どうしても調性にこだわるなら,「第22番変ホ長調」と書けばよい。

 単なる想像力不足のこだわりなのか,わざと意地悪しているのか。

 いずれにせよ,こういう困った評を直させるのが編集者の仕事だと思うのだが,偉すぎて何も言えないのだろうか,それとも,そもそも気付いてもいないのだろうか。

 誤字脱字は一時期より減った気はするが,人名の不統一などは相変わらずだ。全体を俯瞰して見る人がいないのだろうか。