ブロムシュテットのベートーヴェン交響曲全集

 今年(2017年),NHK交響楽団の名誉指揮者でもあるヘルベルト・ブロムシュテットが,かつての手兵であるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と,ベートーヴェン交響曲全集のCDを出した。

 ドイツのアクツェントゥス・ミュージックの制作で,国内盤はキングレコードから出た(KKC5802)。2014年5月から2017年3月にかけてのライヴ録音。

 ブロムシュテットベートーヴェン交響曲全集は,2回目の録音で,1度目は1975年~80年にシュターツカペレ・ドレスデンと録音している(レコード芸術12月号の巻末新譜一覧表で,「ベルリン国立o.と全集を録音していた」とあるのは,誤り)。

 今回の全集は,いきなりライヴ録音ということで出てきたので,リリースのアナウンスを見たときは,どうせ放送用に録音されたライヴの寄せ集め(MDR KULTURのマークが入っている)で,たいしたことないだろうと思い,ほぼノーマークだった。ジャケットも,ブロムシュテットのアップの白黒写真で,デザインに凝ってるようには見えないことも,そう思わせる一因だった。

 ところが,MUSICBIRDで放送されたものを聴いて,それが全く誤りであることがすぐ分かった。とても気に入ってしまい,すぐに買ってしまった(輸入盤)。ついでに,ずっと買おうと思っていたシャイーとゲヴァントハウス管の全集まで買ってしまった。

 ライヴ録音とはいえ,きちんと丁寧に作られた全集であった。シャイーとは異なり,交響曲9曲だけで,序曲等はついておらず,第1番から第9番まで番号順に納められている。

 拍手は全てカットされていて,会場ノイズもほぼ皆無。演奏の傷もほとんどない(傷なのか解釈なのか分からないレベル)ので,言われなければライヴとは気が付かないほど。

 

 楽譜は,ベーレンライター版を基本にしているらしいが,第9番の第1楽章の第2主題ではB♭にするなど,ブライトコプフ旧版も部分的に採用している。この部分は,ベーレンライター版の音はどう聴いてもおかしいので,ブロムシュテットの見識の高さが分かる。ここは,アバドやシャイーも同様。

 一方,第3番の第1楽章の最後の所のトランペットによる旋律化はしていない(個人的には,思いっきりトランペットを吹かせてほしいが)。

 

 演奏は,いろんなところでベートーヴェンメトロノーム記号に従った非常にテンポの速い演奏であるように書かれているが,実際はそうではなく,第9番のように全体的にかなり速いものもあるが,多くは中庸のテンポである。むしろ,カラヤンなどの方が速い。例えば第5番の第1楽章とか,第7番の第1楽章,第4楽章など,メトロノーム記号に従っていることを売りにした録音が出てくる以前の録音と比較しても,全然速くない。もちろん,遅めのテンポを取っているわけではないが。

 シュターツカペレ・ドレスデンとの旧盤は,正攻法な表現の指揮と,いわゆるドイツ風の「ざっくりとした弦」に鄙びた木管,しっかり鳴っているが決して突出しない金管,ペタペタという独特のティンパニの音が絡む,いかにも東ドイツ風のオーケストラによる,独特の味のある演奏だった。

 今回の演奏は,それとは随分異なり,非常に洗練された演奏になっている。ライヴだが,隅々までコントロールされていて,「おやっ」という瞬間はほぼない。しっかりと手応えのある音だが,軽やかな音である。独特の雰囲気がある。聴いていてとても気持ちがいい。バスがしっかり土台を作っていて,とてもよく整理された響きである。ベルリン・フィルのような圧は感じない。

 モダン楽器による正攻法な演奏で,いわゆるピリオド奏法を取り入れたりはしていない。ラトルのように,突然部分的に(効果を求めて)ピリオド奏法を「擬態」(金子建志先生の表現)するようなこともないので,最初から最後まで安心して聴ける。

 ベートーヴェンを聴いたという充実感の得られる演奏である。

 なお,第9番では,合唱がとても美しい。マズア以来の伝統と言っていいと思うが,児童合唱も入っている(シャイー盤も同様)。アルト独唱が藤村実穂子というのもうれしい。それと,ブロムシュテットの演奏に限らず,いつも第九を聴くと思うのだが,もの凄く歌いづらそうだ。特に独唱がそうで,その中でもテノールは一番ひどい。朗々と歌っていて気持ちよく聴ける演奏は,ほとんど聴いたためしがない。第九だけでなく,ミサ・ソレムニスも,歌いにくそうに聴こえる。ベートーヴェンは,声を扱うのが苦手だったのだろうと思う。

 

 さて,このCDの解説(ユリア・スピノラ/余田安広訳)に「サウンドの温かさと演奏の精密さは両立しない,という誤った認識をブロムシュテットは捨てた」とあり,レコード芸術11月号160ページからの増田良介氏と12月号月評の満津岡氏がともに名言であるかのように取り上げているが,全くそうは思わない。増田氏は,この一文を取り上げて,「虚を突かれる思いがした」と述べており,満津岡氏は,「当セットのライナー・ノーツに~と記されている通りであり」と述べている。

 「捨てた」ということは,それまではブロムシュテットは「サウンドの温かさと演奏の精密さは両立しない,という誤った認識」を持っていた,ということになるが,そうではないだろう。そんなことを言われたら,ブロムシュテットは「そうじゃない!全然分かってないな!」と言うのではないか。

 これまでずっと両立させようと努力してきたからこそこれだけの演奏に到達できたのであって,認識を捨てればすぐ達成できるものではないだろう。しかも,おそらく,このCDも到達点(ゴール)ではなく,あくまで現時点でできるだけのことをした結果だ,と言うのではないか。

 この文章,傲慢な上から目線の評論家が自分の文章に酔いながら書いたように思えて,気分が悪い。また,その文章に目を付けたと得意気になっているように見える日本の評論家も気持ちが悪い。

 とここまで書いて,やはり釈然としなかったので,解説書の原文(ドイツ語)を読んでみると,次のように書いてあった。

 Blomstedt räumte mit dem Missverständnis auf, dass Wärme des Klangs und Präzision des Zusammenspiels einander ausschließen.

 問題は下線のところ,aufräumenとdemで,aufräumenは辞書を引くと,後にmitが続くので「排除する」「一掃する」という意味であり,ブロムシュテット(彼の)「~という誤った認識を捨てた」ではなく,ブロムシュテット(世間の人々の)「~という誤った認識を一掃した」という意味で,つまりは,ブロムシュテットは(世間の人々の)「~という認識が誤りであったことを証明して見せた」といった趣旨だろうと思う。

 そうすると,全くの誤訳であり,その一文を「いかにもそのとおりだ」というように取り上げた日本人評論家の評は,何とも恥ずかしい限りである。

 それでも,スピノラ氏の言いようは大仰で好きではない(ドイツ人らしい持って回って言い方,と言うべきか)が,そうは言っても,温かい響きと演奏の精密さが非常に高い次元で両立しているのは確かであり,その認識自体には全く賛成である。

 ここ十数年で発売されたベートヴェンの交響曲全集の中では,特に優れたものであることは間違いないと思う。