宇野功芳さん1周忌

 音楽評論家・指揮者の宇野功芳さん(1930-2016)が亡くなってもう1年が経つという。レコード芸術6月号で特集を組んでいるが,評論家の特集を組むのは,宇野さん以外では(少なくともここしばらくでは)吉田秀和さんくらいだろう。それだけの人だったのは確かだと思う。

 はっきり言って全面的に好きというわけではなかったが,月評は必ず読んでいたし(面白いから),月評以外でも,宇野さんの文章は読む機会が多く,たくさん影響を受けたし,教えてもらったと思う。

 

 好きな演奏の傾向は必ずしも一致しなくて,むしろ外れの方が多かったように思う。感覚的には,宇野さんがベタ褒めしたものについては,6対4か7対3くらいで外れだったように思う。もちろん,例えばHJリムのベートーヴェン(録音は最悪)のような当たりもあった。宇野さんが褒めたおかげでその後大好きになった演奏家としては,ヴァイオリニストのギル・シャハムがいる。宇野さんがシャハムのチャイコフスキーシベリウスの協奏曲の月評で「妖刀の切れ味」と評したのを機に聴いてみてすっかりはまり,今では一番好きなヴァイオリニストと言っていい。もっとも,宇野さんはそのCDを褒めただけであって,シャハムが大好きだったわけではないようだが。

 一方,宇野さんが大好きなフルトヴェングラークナッパーツブッシュは苦手だ。苦手というより,モノラル録音ばかりなので聴く気にならないのである。貧弱な音では聴いていてストレスがたまるからだ。別にフルトヴェングラーが(人間的なことは別にして)嫌いなわけでも何でもない。余談だが,ああいう貧弱なモノラル録音を聴いても満足できる人というのは,ある意味人種が違うのかなと思う。自分には耐えられない。

 

 また,宇野さんというと,歯に衣着せぬ明快な物言いが特徴で,これでもかというほど褒める一方,メチャクチャにけなすことも多かったわけだが,不思議と,自分が好きな演奏がけなされても腹が立つことが少なかった。

 なぜだろうと考えると,宇野さんが音楽と演奏家に対して敬意を持って書いているのが何となく伝わるからなのかなと思う。おそらく,彼自身が演奏家であったからだと思う。「プロなんだからもっとできるはずだろ!」と叱咤激励しているように感じられるのだ。それと,宇野さんの場合,褒めてもけなしても,とにかく一度聴いてみようと思わせるということがある。むしろ,けなせばけなすほど,そんなにひどいんじゃ一度聴いてみたいなと思ってしまうのだ。これは,音楽評論で一番大事なことだと思っている。結局は自分で聴いてみないと始まらないからだ。「聴くに値しない」と言われても聴いてみるしかないのだ。

 ついでに言うと,よい音楽(レコード)評論だと思うのは,①どんな演奏家具体的にイメージできる,②とにかく1度聴いてみたくなる,③とにかく音楽が大好きである,④演奏家に敬意を持っている,といったことが伝わってくるもの。その上で,博覧強記だったり,情報通だったり,オーディオや最新テクノロジーに強かったり,文章がうまかったりすればなおよい。

 

 一般論として宇野さんが語ったことは,納得させられるものが非常に多かった。というか,大抵はそのとおりだなと素直に思えた。その中で「さすが,そのとおり!」と思ったものを,うる覚えであるが挙げてみる。

① 第一ヴァイオリンがきちんときこえないのはダメ

② 女声歌手のヴィブラートほど非音楽的なものはない

③ 変奏曲は嫌い

④ モーツァルトの《フィガロの結婚》では,第2幕のスザンナのアリア「おいで,お膝をまげて」が一番好き。

  ところが,④で宇野さんが一番好きな演奏として挙げるのはクレンペラー盤で歌っているレリ・グリストのものだが,聴いてみるとパッとしない。一般論と具体の演奏が一致しない例の一つである。

 

 

 さて,宇野さんは言ってないと思うが,最近の演奏(指揮者)の傾向について思うのは,音色やテンポの変化にはあまり興味がなく,ピリオド奏法をどう取り入れるかと強弱の付け方にばかり目が向いているように思う。

 そのうち,強弱について気になる演奏が多い。ラトルあたりが流行らせたように思うのだが,急に音を弱めてクレッシェンドさせたり,波状攻撃のように短い間隔で強弱を繰り返したり。どうも,音楽がせき止められるような感じがして,聴いていて気分が悪い。

 また,これもラトルがよくやるのだが,ほとんどの人が音を区切って演奏するところをダラダラとつなげて演奏させるのも嫌いだ。不良がズボンを引きずりながらダラダラと歩っているようで,気味が悪い。

 テンポについて言うと,曲想に逆らうようなテンポ変化で他人との違いを示そうとするような演奏が多いように思う。これも,音楽そのものの力を弱めてしまう。