牛田智大ピアノ・リサイタル2018(福島市音楽堂)

 今日(2018年9月30日),福島市音楽堂でピアノスト牛田智大のリサイタルがあり,聴いてきた。いい演奏会だった。

 

牛田智大 ピアノ・リサイタル 2018

福島市音楽堂

2018年9月30日(日)

開場:14時30分

開演:15時

(プログラム)

1.リスト:超絶技巧練習曲集S.139~第1番

2.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番変ロ短調Op.83《戦争ソナタ

3.ラフマニノフ:絵画的練習曲集Op.33~第8曲

4.ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調Op.36(改訂版)

 (休憩)

5.ショパン24の前奏曲Op.28

6.バッハ(ブゾーニ編):シャコンヌ

7.プーランク即興曲第15番《エディット・ピアフを讃えて》

(アンコール)

1.シューマン子供の情景Op.15~第7曲「トロイメライ

2.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2第1楽章~ハッピーバスデー

3.バダジェフスカ乙女の祈り

 

 当初の予定では,ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番が演奏される予定だったが,変更になった。何と変更になったのか,KFBのホームページに出ていたはずなので,演奏会終了後に見たら,既にページが消されていて,きちんと確認できなかった。そんなに慌てて消さなくてもいいのに。

 

 今日は,台風第24号が接近していることもあり,駐車場が混むだろうと思って早めに行ったのだが,14時過ぎには既に音楽堂周辺の駐車場はいっぱいで,福島競馬場北東に設けられた臨時駐車場に行くよう案内された。そちらはまだガラガラで,余裕で止められたが,音楽堂まではちょっと歩かないといけない。

 寄り道しながら,開場後の14時30分過ぎに音楽堂に着くと,外まで人があふれていて,なかなか入れなかった。人気のほどがうかがわれた。

 中に入ると,9割くらい席が埋まっていただろうか。珍しいかもしれない。

 バルコニーにテレビ局のカメラが入っていたので,主催者のKFB(福島放送)が中継でもするのか(それでカメラ1台というのはおかしいのだが)と思ったら,アナウンスがあり,NHKが取材しているとのことだった。そのうち特番があるのだろうか。

 そして,開場直前に客席から「バタッ」と大きな音がして,何かと思ったら,観客の1人が倒れたのか足を踏み外したのか,腕に怪我をしたようで,腕を押さえながら出て行った。

 そのせいかどうか分からないが,5分以上遅れて開演。

 

 CDデビューした頃は,写真で見るといかにも子供で,「12歳でCD出すんだ~」くらいにしか思っていなかったが,18歳になった今は,すらっとしたイケメンになっていた。

 最初のリストは,曲名どおりまさに「前奏曲」として始まり,終わっても立ち上がらずに(拍手させずに)そのままプロコフィエフに突入。

 福島市音楽堂の残響にとまどっているような感じがしないでもなかったが,プロコフィエフらしい轟音を轟かせた快演だった。第3楽章は,残響で曲が分からなくならないギリギリのテンポを取ったのか,ほんとはもっと飛ばせる,飛ばしたいんじゃないかという感じもした。

 プロコフィエルの後は立ち上がって拍手を受け,袖には下がらずにそのままラフマニノフの練習曲を披露。この後,一旦袖に下がる。

 休憩前の最後の曲は,ラフマニノフソナタ第2番。短い改訂版ということもあって,一気に聴かせてくれた。これも快演。

 休憩後はショパン前奏曲。24曲を切れ目なしに演奏。ダイナミックスの幅が大きい若々しい演奏で,あっという間だった。そしてそのままアタッカでシャコンヌへ。ピアニスティックな迫力ある演奏だった。

 プログラムの最後はプーランク即興曲第15番。初めて聴いたが,牛田君の名刺代わりの曲のようだ。しっとりした美しい曲。

 

 その後,マイクを持って今日のリサイタルへの思いを話してくれた。

 福島県内でのソロ・リサイタルは初めてで,今日はいわき市の祖父母やいとこが来てくれているとのこと。

 そして,聞き間違いでなければ,2016年7月26日に亡くなった,師匠である中村紘子さんの死後初めてのリサイタルだという。そして,この日のプログラムは,中村さんの生前最後に開いたリサイタル(チョ・ソンジンとのジョイント)のプログラムを,予定どおりの形で再現しようとしたものだったとのこと。

 また,いとこは今日が誕生日だとか。

 丁寧に聴衆に語りかける様子は,まさに好青年という感じだった。

 

 そのまま,マイクを置いてアンコールを3曲。

 まずは,シューマントロイメライ。涙が出そうになるほど,とっても美しい演奏だった。

 そして,ベートーヴェンの《月光》ソナタの第1楽章が始まったので,アンコールでやるには長すぎるのでは?と思っていると,途中から月光ではなく,ハッピーバースデーの曲に。短調でやるのは変かなという気もしたが,いとこヘのプレゼントだろう。会場も大いに沸いた。

 最後は《乙女の祈り》。プロが真面目に演奏するのは珍しいかもしれないが,聴衆を楽しませようという気持ちが見えたし,きっと牛田君も大好きなのだろう。

 

 一部,マナーの悪い客がいて,うるさかったりしたが,大いに盛り上がった演奏会だった。これからも応援したくなった。

 演奏会終了後のサイン会には,多くの人が並んでいた。

 ぜひ,定期的に福島で演奏会を開いてほしいと思った。

 

 

キリル・ペトレンコとベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲第7番

 ベルリン・フィル・デジタル・コンサート・ホールで,8月24日にキリル・ペトレンコが指揮した定期演奏会を見た。と言ってもまだ全部をじっくり聴いたわけではないのだが,これがまた凄まじい演奏だった。

 

 前半がリヒャルト・シュトラウスの《ドン・ファン》と《死と変容》,後半がベートーヴェン交響曲第7番というプログラムで,ペトレンコがベルリン・フィルとドイツの王道プログラムで勝負するのは初めてと言っていいと思う。

 《ドン・ファン》も,例えばラトルのアジア・ツアーでの演奏と比べてもずっとキビキビして引き込まれる演奏だったが,圧巻はもちろんベートーヴェンだった。

 部分的にノン・ヴィブラートで弾かせたように聞こえる箇所があったりしたが,基本的にはオーソドックスな解釈。でも凄まじい生命力で,最後まで一気に聴かせられた。やはり,カルロス・クライバーを思わせる演奏だと思った。

 演奏終了後も,ベルリンの聴衆があれだけ熱狂してブラボーを叫ぶのはかなり珍しいように思った。

 

 首席指揮者・音楽監督に就任するのは来シーズンからだが,ますます期待が高まると同時に,短命で終わってしまわないかという妙な不安を感じてしまう。当たらないといいのだが。

 

 

Perfumeの新譜「Future Pop」のこと

 Perfumeの7枚目のアルバム「Future Pop」が8月15日に発売された。

 全12曲だが,収録時間は42分ちょっと。ミニアルバムと言ってもいいくらい。これは,1曲目の「Start-Up」がイントロで1分弱しかないのと,ほかの曲も3分台がほとんどと短いことによる。

 元々,Perfumeのアルバムは,1時間を超えるものはなくて,今どきのアーティストにしては収録時間が短めだが,今回のは特に短い。昔のアナログ時代のアルバムのようだ。後からLPでも出そうというのだろうか。

 2年4か月待ったファンからすると,この短さはかなりがっかりだ。もっとも,凝集感は強く,一気に聴ける。

 しかしやはり,12曲(実質11曲のうち,前作からの間に発売されたシングル6曲が全部入っているので(しかも,Album Versionとされているのは1曲もない),新曲は5曲しかない。2年4か月ぶりということを考えると,これは何とも残念だ。いや,シングル自体の発売もたった3枚なので,要するに,シングルも含めてリリースされる曲がかなり少なくなっているということだ。今さら言うまでもないが。

 また今回,Let Me Knowという曲がアルバムを代表する曲という位置づけのようで,Video Clipがついている。見ると,例によってMIKIKO先生の手話ダンスで,もうワンパターンとしか言えないような振付け。見たことのあるような動きばかりでまたまたがっかり。

 

 ここ何作か,ドラマやCMとのタイアップがあるのでオリコンチャートなどではそれなりの売れ行きをみせているが,曲とダンスの魅力はだんだん落ちてきているように思えてならない。

 メンバーが30代を迎え,そろそろ中田&MIKIKOから一度離れてみる時期に来ているように思う。いつまでもこの2人に寄りかかって,というわけにもいかないのではないか。

 

こむこむ館のサン・チャイルドのこと

 福島市の「こむこむ館」の前に設置されたヤノベケンジ氏制作の巨大なモニュメント「サン・チャイルド」が批判を浴びているという。当然だと思う。あまりにも無神経だ。

 

 サン・チャイルドは,ぱっと見,何と言うことはない,かわいい男の子の像である。それが,防護服か宇宙服のような服を着て,胸には線量計らしきものがついていて「000」を表示しているというもの。放射線がゼロだという意味らしい。そして,なぜか顔はアザと傷だらけで,よく見るとかなりこわい

 これに対して,放射線がゼロというのはあり得ない(世界中どこでもそうである),防護服を着ないといけないような所だ(だった)という誤解を招く,などの理由で批判を浴びている。

 この像は,ふくしま未来研究会という一般財団法人ヤノベケンジ氏から譲り受け,福島市に寄贈したものらしい。今月3日除幕式をやったという。

 除幕式をやるのに際して作られたらしいカードを手に入れた。「ふくしまに来た光の子 サン・チャイルドのニックネームをつけよう!!」というのをやっていて,応募用のハガキを配っていたよう。それによると,サン・チャイルドは,「未来からやってきた光の子。「サン」には「太陽」という意味もあるよ。」だそうで,サン・シスターという姉がいるそうである。さらに,作者の制作の意図は,「大きな夢と希望を与える希望のモニュメント」だという。

 これを読むとますます意味が分からなくなる。何で未来から来た光の子が防護服を着て,顔がアザと傷だらけなのか?この子に一体何が起きたのだろうか???

 

 ヤノベ氏も,福島市(木幡市長)も,ふくしま未来研究会も,無神経すぎる。こんなものをわざわざこむこむに置く意味が分からない。

 ヤノベ氏と木幡市長はコメントを出しているようだが,市長のコメントを読む限り,意味不明。市長本人が書いたのか担当部署で書いたのかは知らないが,この人大丈夫かと思ってしまう。

  ヤノベ氏はサン・チャイルドの服を「甲冑」だとか言ってるそうだが,後付けの苦し紛れの言い訳だろう。最初から本当に甲冑だと思って作ったとしたら,この人の頭はどうかしてる。

 また,脳科学者の茂木健一郎氏がブログで書いているのも見つけたが,論点がずれていて,やはりこの人も大丈夫かと心配になる。

 

 いろいろ屁理屈を並べて墓穴を掘る前に,さっさと撤去してほしい。こんなの,なくていい。設定を変えて,原発事故で酷い目にあった男の子ということにして,線量計の数字も変えて,東京電力本社の前にでも置いたらいいのではないか。

 

 

追記

 市民の批判を受けて,8月28日に木幡市長がサン・チャイルドの撤去を表明した。あまりにもお粗末な展開だが,まずは撤去と決まってよかった。

 設置に133万円を市が負担しており,撤去にも100万円以上かかる見込みだという。木幡市長は給与を減額するそうだが(当然,議会が通ればだが),どのくらい減額するのかは明らかでない。

 直接的な経費は以上だとしても,アンケートや諸々の事務手続にも職員の負担は相当なものがあっただろうと思う。

 さらにお粗末なことが起きていたと河北新報が報じていて,28日の記者会見のうち,モニュメントに関する質疑応答のみをカットして市のウェブサイトに動画配信していたのだという。事実関係がはっきりしないところもあるので,続報が出ると思う。

 今回の件は,キャリコネニュースによると,ヤノベ氏から,今回問題となったモニュメントと,同作品の10分の1スケール像が2016年に「ふくしま自然エネルギー基金」という一般財団法人に寄贈され,同基金から今年に入って市に寄贈したいという話があり,実際に市に寄贈したのは「ふくしま未来研究会」となったのだが,市は別団体からの寄贈になった詳しい経緯は不明だとしているという。なお,こむこむ前に置くことにしたのは,市の意向だという。市の意向というのが,担当部署が検討した結果なのか,木幡市長の指示なのか,その辺も気になるところではある。

 この辺にも,今回の出来事の不可解さが垣間見える。

 

 ヤノベ氏がこのモニュメントを作ったのは震災後間もない頃のことで,7年も経ってから福島市中心部に置かれることになるなど,想像もしてなかっただろう。そういう意味では,ヤノベ氏を責めるのは酷だと思う。今回の話を聞いたときに,市がここがいいと言っているのに,そこは問題だなどとは,考えもしなかっただろうし,思ってもなかなか言えなかったと思う。そういう意味からも,市がヤノベ氏個人への誹謗中傷はやめてほしいと言うのは当然だ。

 

 今後明らかにしてほしいのは,福島市,ふくしま自然エネルギー基金,ふくしま未来研究会の間でどのような経過があって寄贈を受けることになったのかということ。ここに一番きな臭さを感じる。市長選のときの貸し借りとかがあるのではないかと勘ぐってしまう。

 それと,市内部の意思決定プロセスも明らかにしてほしいと思う。こんなことで市の職員が対応に忙殺されるのは,市民にとって大きな損失だということを踏まえた上で,今後のことも考えてきちんと検証し,公表してほしい。

 

 いずれにせよ,こういうことがあると,ネーミングライツの件もそうだが,木幡市長は市民の気持ちを考えない,分からない人だ,と思われてしまうだろう。自分たちの市長がこういう人だという福島市民は不幸だ。早く挽回してほしい。

 

 

追記2)

 今日(9月5日),作者のヤノベケンジ氏が記者会見し,テレビで放送されていた。これからも堂々と関わっていきたいとか,市民と意見交換をしたいとか言っていたようだが,はっきり言ってもう関わらないでほしいと思う。何だかんだ言ったって,ヤノベ氏の宣伝にしかならない。どんな屁理屈を並べようがそうだ。我々市民は十分迷惑している。ヤノベ氏を誹謗中傷する気はないが,もういい加減にしてほしい。

 あんなのを今頃福島駅前に置こうという無神経さには,耐えられない。そんな人に支援してもらおうとは思わない。

 なぜ福島「市」に置くということになったのか,その経過も説明なしに,何を言ってるのかと思う。

 

 

追記3)

 撤去の日程も決まったとのことで,この件の報道もまだ収まる気配はないのだが,「違うのでは」と思うのは,風評被害を市民が心配しているから,と一々書かれること。今さら,福島市で,あんなもののせいで風評被害が起きるとは思えない。遠くから来て見た人は,別にどうとも思わないと思う。むしろ,「いいんじゃない!」くらいの感想だろう。実際,福島民友の記事なんかを読むと,そうだ。

 むしろ,あれだけ嫌われるのは,単に気持ち悪いということが大きいのではないかと思う。特にあの顔。前にも書いたが,なぜあんなにアザだらけで,絆創膏まで貼っているのか。微笑んでるという説明も見た気がするが,全然微笑んでいるようには見えない。むしろ,下から見ると悲しげに見える。

 ヤノベ氏には,なぜ顔がアザだらけなのか説明してほしい。防護服を着て,ヘルメットも持っているのにあんな顔をしているということは,防護服を着る前に何か酷い目にあったということだろう。それは一体何なのか。今回の原発事故のせいであんな顔になった人はどこにもいないはずだ。全く意味が分からない。

 そして,そのせいで,気味が悪く,怖いのだ。そういうのを,見たくなくとも見せられる市民のことを考えてほしい。見たくて来る人が見るものではないのだ。

 

 それと,いまだに設置に至る経緯が市長から説明されていない撤去に100万円以上かかるそうだが,その予算はどこから出てくるのかの説明もない。役所なのだから,予算が執行はできない。ということは,設置に当たっても予算を取っているはずで,議会にどう説明していたのか,していなかったのかも問題だ。だから,議会が黙っているのもおかしい。議会軽視だと騒いでいいはずだ。

 何から何までおかしなこの件,市長が報酬を返上するだけで済まないのは明らかなのだから,とにかくきちんと説明してほしい

 

 

福島市音楽堂のネーミングライツ

 昨日(2018年8月1日)の新聞に,大変残念な記事が出ていた。

 福島市音楽堂のネーミングライツ福島信用金庫が取得し,愛称が決まったというものである。

 ネーミングライツについては,児童公園のときにやめてほしいということを既に書いた。

 今回の音楽堂は,それ以上にショックだ。文化施設だからである。

 ホールでネーミングライツというと,セイジ・オザワ松本フェスティバル(サイトウ・キネン・フェスティバル松本)の会場として知られる松本市の松本文化会館が有名だろう。某製薬会社がネーミングライツを取得している。2012年からのようだが,定着していると言えるだろうか。

 小澤征爾さんやサイトウ・キネン・オーケストラについてはいろいろ書きたいことがあるが(一言で言うと,残念としか言えない),それはまたの機会にするとして,このホールの音響は,テレビやCDで聴く限り,いいとは思えない。

 

 それはともかく,福島市音楽堂について言うと,歴史は児童公園より新しいが,既に「福島市音楽堂」という名前は定着している。

 児童公園もそうだが,市民には愛着のある,福島市にとって重要な施設だ。木幡市長は何を考えているのか。いや,考えていないのだ。こういうことが続くと,「木幡は福島市出身じゃないからな」と言われるようになるだろう。

 今回決まった愛称は,気にくわないのでここでは書かない。長くて言いにくい名前だ。定着はしないだろう。児童公園も,運営会社は積極的にPRしているようだが(その費用が無駄だ),定着しているとは言えないと思う。

 音楽堂の契約は,5年間で,年間500万円の契約だという。

 5年で終わりにすることを切に願う。その頃,市長は誰だろう。

 

  福島市音楽堂が市民に愛される施設であることは間違いないが,音響については疑問を持っている。よく響くホールとして知られ,かつては有名音楽家(主にピアニスト)がレコーディングに使ったこともある。最近だと,新垣隆交響曲ほかがライブ・レコーディングされている(デッカ UCCD-1443)。録音を聴く限り,特に音響に問題を感じない。

 しかし,いつも思うのだが,特に高音が聞こえないように思う。ヴァイオリンやピアノの高音がそう。演奏する人からするとどうなのだろう。

 詳しい人に実際のところを聞いてみたいし,どの辺の席だとよく聞こえるのかも知りたい。

 

 

Windows10 April 2018 Update (1803) インストール時のバグ

 Windows10の大型アップデート「April 2018 Update」がインストールできない不具合が起こった。

 既にほかの方が書いたブログ等もあり,参考にさせてもらったが,備忘録として書いておく。

 

 インストールが49%まで来たところで,「これらのアプリをアンインストールできませんでした」というメッセージが出て進まなくなってしまうというものだ。

 「これらのアプリを自分で削除してから、[最新の状態に更新]を選ぶ必要があります。」

 「これらのプログラムはアップグレードと互換性がないため、アンインストールする必要があります。」

 とあって,「・DVD-RAM Driver Software/BD Driver Software」が6つ。

 

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 DVD-RAMにしてもBDにしても,内蔵のドライブが1台しかついてないのだから,6つも出るのは変なのだが,とにかくDVD/BDドライブのドライバの問題だろうと思い,いきなりドライバを削除してみるのも怖いので,メーカーに問い合わせた。

 しかし,原因も対処方法も分からないが,ドライバやソフトウェアが最新の状態になっているか?とか(当然やっている),こちらからするとピントのはずれた解答しかなく,おそるおそるドライバを削除してみるが,一向に改善せず。

 もう一度メーカーに問い合わせたが,ディスククリーンアップをしてみろといった解答だけで,やってみても変わらず,諦めてインターネットで検索してみると,昨年のアップデート1709のときも同様の不具合が出ており(今年買ったパソコンなので,1709はインストールしていない),DVD-RAM」という文字列がファイル名に入っているものがPC内にあると起きるという笑っちゃうようなことが書いてあり,まさかと思いつつPC内を検索してみると,確かにファイル名の中に「DVD-RAM」という文字列の入ったファイルがいくつか見つかった。

 しかし,PDFファイルとラベルマイティのデータファイルで,システムとは全く関係のないファイルだったので,騙されたと思って,これらのファイルを削除したり一旦待避させたりしてPCから見えない状態にしてアップデートをやってみると,何の問題もなくアップデートが完了してしまった。

 これは完全にMicrosoftのバグと言っていいだろう。

 あほみたいなバグで腹が立ってしょうがないが,1709のときに既に分かっていて,1803でも起きることを指摘している人がいる状態なのに,何の対応もしないMicrosoftと,バグを把握していないメーカーには呆れてしまった。

 おかげで随分時間を無駄にしてしまった。

 

 

レコード芸術は大丈夫か?

 このところ,「レコード芸術」を読んでいると,すぐに分かるような誤字・脱字,人名の不統一,記載内容の誤りなどがやたらと目立つ。そもそもの原稿が間違っているということもあるのだろうが,編集段階での校正が不十分なためではないかと思う。

 

 一々メモしていないのであるが,2018年6月号で気が付いたところを幾つか挙げてみる。

 まずは84~85ページの増田良介氏のゲルギエフによるプロコフィエフ全集の記事がものすごく酷い

①84ページの1段目に「協奏曲7曲」とあるが,ピアノ協奏曲5曲,ヴァイオリン協奏曲2曲,交響的協奏曲の計8曲である。

②《イヴァン雷帝》の語りを務めているアレクセイ・ペトレンコについて,85ページの1段目に「アレクセイ・ペトレンコ(1938~2016)」とあり,続いて「この演奏のときペトレンコは78歳だったが・・・ペトレンコはこの翌年に亡くなった」と書いてあるが,「この演奏」は2016年なので,矛盾しており,どちらかが間違っている。

③85ページの3段目に「第4番は長い改訂稿だけ・・・が演奏されている」とあるが,その後に「第4番はこのセットと同じく初稿のみだった」とまた矛盾したことが書いてある。どちらが本当かこの文章だけでは分からないが,タワーレコードのホームページを見ると,作品47の方とあるので,「短い方の初稿だけ」が演奏されているというのが正しいようだ。

④同じく85ページの3段目に「ロンドン響と録音した全集では・・・ボーナス・トラックとして第7番の初稿エンディングを収めていた」とあるが,ボーナス・トラックとして日本盤にのみ収録されていたのは,改訂版の方である。

 1つの記事の中で,ざっと読んでこれだけの間違いがあるというのは,信じられない。しかも,①~③は何の予備知識なしにこの文章だけ読んでも間違いに気付くものである。おそらく,全部増田氏の原稿が間違っていたのだと思うが,校正の段階で気付いていいものだ。ほかにも気付かない間違いがあるかもしれないと思うと,安心して読めない。

 増田氏は最近レコード芸術での原稿量が急激に増えている評論家の一人だ。やっつけ仕事になっているのかもしれない。

 

 もう一つ,別のページの例だが,32ページでは,本文では「ワインガルトナー」と,ディスク紹介のところでは「ヴァインガルトナー」となっている。これまで,レコード芸術で「ヴァインガルトナー」という表記はなかったと思う。筆者の芳岡氏がヴァインガルトナーと書いていたのかどうか分からないが,完全な校正漏れだろう。

 最近,この手の間違いが非常に多い。これまで見付けたのは,別ページの記事同士,しかもまだカナ表記が定まっていないような演奏家ばかりだったと思うが,ワインガルトナーのような有名演奏家で,しかも同一ページでこのような不統一が起きるというのは,深刻だ。

 

 ほかにも,校正の問題でないが,よく見られるのは,特集ページで必ず出てくる名盤紹介のページ(いろんな評論家の推薦盤に,短いコメントが付くスタイル)で,本文で別な評論家が書いているのと同じことを能書きとして言い訳のようにダラダラ書いて,どんな演奏かほとんど書いてないものがある。読んでいてうんざりするのだが,こういうのは編集者が書き直させるべきだろう。

 こういう,特集の中で評論家が勧める名盤を数ページにわたってならべるというスタイルは,レコード芸術でよく見られるものだが,はっきり言って読むのがしんどい。やめてほしい。ああいうのは,考えた方がいいと思う。情報量も少なく,うんざりする。

 

 以前も書いたが,昔に比べて値段がすごく上がっているのにページ数はずっと減っている。それなのに間違いが増えているというのは,(手書きで入稿する人も減っているだろうに)ゆゆしき事態だ。編集部の人員が減らされているのだろうか。

 発行部数がどうなっているのか知らないが,読者は減る一方なのではないか。

 新しい読者を集めないと,ますます酷いことになると思う。もっと初心者でもとっつきやすい記事を入れるべきではないか。ちょっとした雑学的なものとか。有名なエピソードでも,意外と知らないことも多いものだ。

 あるいは,ちょっとマニアックではあるが,5月号の「レコード誕生物語」のジャクリーヌ・デュ・プレエルガー:チェロ協奏曲の記事はよかった。藤野竣介氏は,三浦淳史さんの後継者たり得る人のように思う。これからも,曲・作曲者・演奏家に対する愛にあふれた記事をお願いしたい。

 あとは,下田幸二氏の「ピアノ名曲解体新書」も好きで,単行本化してほしいと思うが,このところ取り上げる曲がややマイナーなものばかりになってきているのが残念であり心配。有名曲でも取り上げていないものがまだまだあるはずなので,バランスを取って曲選びをしてほしい。

 

追記

 2018年9月号は,レナード・バーンスタインの生誕100年特集だった。発売日に大きな本屋2軒を回ったがいずれも売り切れで買えず,Amazonで2日遅れで入手。売れているならいいのだが,入荷した冊数が減らされているようだと心配だし,困る。

 さて,特集の43ページと52ページは,写真の上に記事の文字を重ねているのだが,ものすごく見づらい。26ページのように,白抜きの文字を使うのではなく,43ページは黒字の周りを白で縁取りし,52ページは黒字の周りを微妙に白でぼかしているのだが,どちらも恐ろしく見づらく,読んでいて頭が痛くなる。デザインも大事だが,まずは読みやすさを優先してほしい。

 それと,クラシック音楽ファンならすぐおやっと思うような誤りも。26ページで紹介している交響曲第1番と28ページで紹介しているセレナードは,1977年と1978年の録音とあるので,アナログ録音のはずだが,デジタル録音と表示されている。

 どちらも再発されたばかりで,この号の巻末の新譜一覧表に出ているので確認すると,交響曲第1番は1977年のアナログ録音,セレナードは1979年のアナログ録音となっていて,セレナードはどちらかが間違っているようだ。面倒なので確認はしないが,データの正確性はレコ芸の命とも言っていいと思うので,しっかりしてほしい。

 

 

ネルソンス指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン《田園》

 MUSICBIRDのTHE CLASSICで,2017年3月23日にアンドリス・ネルソンスウィーン・フィルを指揮した演奏会が放送された(4月22日)。

 曲は,ドヴォルザークのチェロ協奏曲(独奏:アマーシュ・ヴァルガ)とベートーヴェン交響曲第6番《田園》。ほかに,ヴァルガによるアンコールも放送された。

 

 《田園》は,現在進行中のベートーヴェン交響曲全集録音の一環で,先に第3番《英雄》が演奏されており,2曲目となる。

 《英雄》については以前書いたが,全然いいとは思わなかった。

 

 今回の《田園》は,《英雄》に比べるとかなりオーソドックスな演奏で,要は特徴のないのが特徴の演奏だった。特にピリオド奏法を意識したような感じはなく,尖ったところのない穏やかな演奏に終始していたように思う。また,驚いたのは,第1楽章のリピートを省略していたこと。今どきかなり珍しい。一方,第3楽章はリピートをしていた。

 最近のネルソンスは,ブルックナーの演奏などで顕著なようだが,柔らかい響きを志向しているようで,中・低域を重視した響きをつくろうとしているように思う。いわゆるドイツ風のピラミッド型というのとも違うようで,高域が羽ばたかず,メロディーを重視しないので,もやもやしている。高域のメロディーが聴き取りにくいことが多い。

 そのため,どうにも欲求不満になる。特に,ウィーン・フィルは,ヴァイオリンなどの高音がゾッとするような美音を出すのにゾクゾクさせられるので,その辺が抑えられているのが不満。

 

 初めから期待してないのでいいが,せっかくウィーン・フィルとやるなら,もっと違った表現をしてくれたらなと思う。

 それと,確かこのチクルスは4年で完成させるということだが,《英雄》と《田園》でこれだけアプローチが違うと,最終的にどんな全集になるのか,心配だ。

 最近だと,ブロムシュテットが一本筋の通った全集を作ったが,それとは随分違った趣になりそう。

 そうだとすると,全集として一気にリリースするより,1枚ずつ出していった方が,変わりようが分かっていいのではないかと思う。

 

 

いいたて村の道の駅までい館の新メニュー「しょうゆラーメン」を食べてみた

 久しぶりに,飯舘村にある「いいたて村の道の駅までい館」に行ってみると,軽食コーナーに新メニュー「しょうゆラーメン」750円があったので,早速食べてみた。

 メニューの所には,「あっさりスープにもちもち麺」との説明が。写真では,ごく普通の醤油ラーメンで,ネギ,ほうれん草(少々),メンマ(少々),チャーシュー(小さめ),なると,海苔が載っているだけ。麺がよく見える。

 ということで,これで750円とは相当食材に凝った高級ラーメンに違いないと思い,期待して注文し,待つことしばし。

 

 が,残念ながら,出てきたラーメンは,何の特徴もない,ただの醤油ラーメンだった。一言で言うと,安っぽい。昔のドライブインとかで出てきそうな麺にスープ。これで750円払ったら,みんな怒るんじゃないか。

 幸楽苑の一番安いラーメンの方がはるかにまし。

 

 何でも高いので有名なまでい館ですが,山の中の観光地じゃないんだし,世間の常識に合わせないとヤバいのではないかと心配になる。

 

 どうせなら,あと50円出して長崎ちゃんぽんを食べるのをお勧めする

 

公共施設のネーミングライツなんてもうやめるべき

 福島市の3つの公共施設で募集していたネーミングライツの契約相手と愛称が決まったのだという。

 桜木町にある「福島市児童公園」が「ふくしま児童公園SFCももりんパーク」に,山田(大森城山の南)にある「福島市パークゴルフ場」が「NCVふくしまパークゴルフ場」に,建設中の体育館・武道館が「NCVふくしまアリーナ」になるのだという。

 市役所には苦情の電話が殺到しているのではないか。

 

 特に,児童公園は開園して60年以上経つ施設で,福島市内で「児童公園」といえばここのこと,というくらい,長い間市民に愛されてきた施設だ。

 おそらく,これからも,誰も「ももりんパーク」なんていう呼び方はしないだろうし,まして「SFC」なんていう名前は誰の口からも出ないだろう。

 しかも,ネーミングライツを取得したエスエフシー(株)というのは,現在の児童公園の指定管理者なのだという。おそらく,児童公園の運営は赤字だと思う。何せ,乗り物は全て50円か100円なのだ。冬場は極端に利用者が少なくなる。黒字経営ができるわけがなく,その分は市から指定管理委託料として支払われているはず。そんな会社が,年間200万円を払ってネーミングライツを取得するというのはおかしくないか。エスエフシーの詳しいことは分からないが,一応,ネーミングライツ料は市からの委託料とは関係なく,会社のもうけから出しているということになるのだろうが,釈然とはしない。

 それに,名前が変わればパンフレットから何から全部変える必要があるが,そのお金は市とエスエフシーのどちらが負担するのだろう。エスエフシーが負担するとしても,結局は指定管理委託料に上乗せされる可能性がある。それでは,巡り巡ってエスエフシーの宣伝に税金が使われるだけ,ということになる。

 きちんと調べないと分からない話だが,市会議員なり,オンブズマンなり,調査できる人には,徹底的に調べてほしい。

 

 パークゴルフ場はよく分からないが,体育館と武道場は新しくできる施設なので,こちらもインパクトは大きい。市民が何と呼ぶようになるか分からないが,「NCV」なんていう名前を言う人はまずいないだろう。5年間の契約だというが,その後この会社が手を引いたら,呼び方に困るのは福島市民だ。

 

 福島市内の公共施設でネーミングライツによりおかしな名前に変わったのでよく知られているのは,県文化センターと県営あづま球場だろう。

 どちらも,地元の銀行である東邦銀行ネーミングライツを取得し,それぞれ「とうほう・みんなの文化センター」,「とうほう・みんなのスタジアム」という「愛称」になっている。しかし,こんな恥ずかしい名前で呼ぶ県民は,いない。センスがなさすぎる。金で名前を買った連中に,「みんなの」なんて言われたくない。

 マスコミにしてもそうで,今回,東京オリンピックの会場になったことから大規模改修されることになったが,新聞等を見ても,ほとんどの記事で「とうほう・みんなのスタジアム」なんていう名前は出てこない。「県営あづま球場」としか出てこない

 ネーミングライツなんて,無駄に混乱させているだけで,何の意味もないという証拠である。

 東邦銀行の顧客からすれば,そんなのに金を使うくらいなら,預金金利を上げるなり,貸出金利を下げろ,と思う。

 住民からすれば,自分たちの伝統ある大事な施設におかしな名前をつけやがって,となる。

 ネーミングライツを取得して,愛称に会社の名前を入れても,企業イメージのアップにはつながらないと思う

 

 何にしても名前というのは大事なもので,目先の金に目がくらんで魂を売るようなことをすべきではないと思う。

 仙台の宮城球場だって,コボスタの愛称がやっと定着してきたと思ったところで急に変更になり,騒ぎになったばかりだ。

 もう,いい加減こういうドタバタが起きるようなことはやめるべきではないか。名前がコロコロ変わって迷惑するのは,住民である

 

 福島市の今回の3件について言えば,おそらくは小林前市長のときにやることが決まっていたことだと思うが,特に児童公園については,木幡市政の汚点として長く残ることになりかねない。「結局,よそ者だからな」と。小林前市長もよそ者だったわけだが。

 今回の契約は途中で打ち切れないだろうが,木幡市長の英断により,2年後はネーミングライツをやめることを期待したい

 

 

我が町バンザイ

 古いカセットテープを整理していたら,1985年頃にラジオ福島でやっていた「我が町バンザイ」という番組のテープが出てきた。

 その頃,中学生を中心にかなり流行った番組なので,覚えている人も多いと思う。

 

 いつから聞き始めたか覚えていない(最初からではない)が,1984年10月8日から,東北六県のAMラジオ各局で放送が始まった番組で,終了時期は不明だが,残っていたテープでは,1986年夏頃のものが一番新しく,おそらくそれから1~2年以内くらいに終了していたのではないかと思う。

 毎週月曜日から金曜日の午後9時50分から10分間の番組で,リスナーが自分の住んでいる市町村の自慢話を書いて送り,それを読むというスタイルの番組だった。自慢話でなく,どこかの市町村の悪口を書いてよこす場合も多く,今だったらとても放送できないなという内容もあった。

 大塚製薬の提供で,いい内容だと「カ~ロリーメイト」というジングルが出て,ブロックタイプ6箱またはドリンクタイプ6缶がもらえ,さらに「バンザ~イ」などのジングルも出ると,TシャツやBパック(?)などももらえた。後からは週1回の「ポカリデー」もできて,その日は「ポカリスエ~ット~」のジングルが出るとポカリスエットが6缶もらえた。

 

 ラジオ福島のパーソナリティーは,福島市で活躍(?)していたバンド「弁慶と牛若丸」のリーダー高橋雅仁さんで,独特の語り口が人気だった。ほかの5県のパーソナリティーは,みなラジオ放送関係者らしく,AM放送のアナウンサーっぽい喋りで,高橋さんだけが非常に浮いていた。というか,福島県民からすると,ほかの5県の方が変だったわけだが。

 思うのだが,なぜAMラジオのアナウンサーというのはああいう独特の声を出すのだろう。ちょっと鼻にかかったような,不思議な発声をする。おそらく,ノイズの多いAMでもよく聞き取れるように編み出された発声方法なのだろう。ちょっと違うが,昔の車掌さんのようだ。なので,ラジオ放送じゃないところでAMラジオアナウンサー出身の方の話を聞くと,非常に違和感を感じてしまう。

 そんな人たちが,発声はAMラジオなのに,それぞれのお国なまりでしゃべるので,ますます違和感が大きかった。それに対して高橋さんの喋りはよかった。

 

 テーマソングは,弁慶と牛若丸の「ふる里ふくしま」という歌。これが,1985年8月からリニューアルされて雰囲気が随分変わってしまい,とってもがっかりしたものである。絶対古い方がよかった!どこかで古い方だけでいいから音源が手に入らないだろうか。

 最近YouTubeで,震災後に弁慶と牛若丸がこの歌を歌っている姿を見つけ,お元気そうでとてもうれしかった。

 このバンドは,高橋さんの3歳下の弟の剛さんと2人でやっているバンドで,1985年と1986年に開かれたファンの集いでは,ライブもやっていた。あの当時,結構年が行ってるんだろうなと思ったものだが,高橋さんは30代前半だったという。

 ということは,今は60代半ばだろうか。これからも元気で活躍していただきたい。

 

 そのファンの集いでは,読まれなかったハガキをタイムカプセルに入れて,21世紀になったら開ける,と言っていたのだが,やったのだろうか。その中には自分の出したものも何枚かあったはずなので,すごく気になる。

 

 もう一つ思い出深いものがあった。1985年の夏頃のポカリスエットのCMで,杏里が歌うデジャヴーという歌が使われていた。どうも,レコード化はされなかったらしいのだが,とってもいい歌で,これも何とかならないかなと思っている。何しろ,作詞が泉麻人,作曲が井上大輔。井上さんの作曲が悪いわけがない。音源が残っていたら,ぜひ商品化してほしい。

 

 続く,かもしれない。

 

 

ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート2018が意外によかったという話

 今年のニューイヤー・コンサートはリッカルド・ムーティの指揮だった。

 はっきり言って,何の期待もしていなかった。ムーティは昔から聞いているが,どうもよく分からないからだ。むしろ,ベルリン・フィルとの録音の方がいいものがあったと思っている。モーツァルトのレクイエムとか,ブルックナーの4番とか。

 

 ムーティは5回目ということで,もっと出ているかと思ったが,まだ5回目なのだった。

 録画していたのを暇つぶしに見始めたら,これが予想外にいい演奏だった。

 ムーティの表現に特別何かあるという感じではないのだが,ウィーン・フィルがよかった。久しぶりに,しっかりしたいい音のぎっしり詰まった音がしていた。

 何より,楽団員の表情がよかったと思う。リラックスしていてもダレてなく,ムーティを心から信頼しつつ,音楽に専念している様子が感じられた。

 ゲストのヘーデンボルク・直樹さんが,ムーティの音楽について「気品がある」とおっしゃっていたが,そのとおりだなと思った。こういう言葉をそのとおり素直に感じられることは珍しいのだが,今回はそうだった。

 

 こういうことがあるから,音楽を聴くのは楽しい。

 

 

「いいたて村の道の駅までい館」のお勧め3品

 久しぶりにまでい館を訪れた。随分お客さんが減っていた。特に食堂はガラガラ。あのメニューでは厳しいだろうなと思っていたが,案の定。駐車場にたくさん止まっている作業員さんたちはみな,セブンで弁当を買って車で食べ,寝ているようだ。客の取りこぼしがすごいということだろう。売れるメニューを真剣に考えた方がいいと思う。

 売店も,相変わらず何でここでこんなの売ってるんだというのが多い中,村内産,村民産のものが増えていたのはうれしい。

 そんな中から,実際に買って味わってよかったものを3つ紹介する。

 

どぶろく どぶちえ・白狼】

 福島県内のどぶろく特区第1号として認定されたというもの。内容量と瓶かペットボトルかで4種類くらいある。500mlのペットボトル入りが1,100円から。

 清酒でなく濁酒である。見た目は甘酒。でも中味は辛口。お酒好きならいくらでも行けるはず。何となく,ただの日本酒を飲むよりも,「飲んだ!」という満足感が高い。

 度数が18~19度と高いのに,意外と次の日残りにくい。

 製造者の佐々木さんは,村内に農家レストラン「氣まぐれ茶屋ちえこ」を再建準備中だそう。再開したらぜひ行ってみたい。

 

【高橋トク子さんのキムチ】

 地元では漬物名人として有名だという高橋さんが,本場韓国で修行してきたというキムチ。カットされてない白菜約4分の1に,ほかの野菜やいかの塩辛なども入った本格キムチ。1袋1,000円するが,大きめのタッパー2つ分くらいの量はある。

 さすがに本場で修行してきたというだけあって,スーパーで安売りしている国内産のキムチとは格が違う。塩辛の苦みがアクセントになっていて,とてもおいしい。辛さはそれほどではないが,きちんと感じられる辛さに仕上がっている。この辺の塩梅が見事。

 いつも売っているわけではないようだが,かぼちゃまんじゅうも見つけたら絶対買っておきたい。皮がもっちもちでとってもおいしい。中もかぼちゃの餡。

 

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【いいたて雪っ娘かぼちゃ】

 加工品もいろいろ売っているが,やはりかぼちゃそのものから味わうべし。

 作っている方は何人かいらっしゃるようだが,今,までい館で売っているのは渡辺とみ子さんのもの。結構すぐ売り切れるようなので,見かけたら買うべし。

 大きさによって値段が違うが,だいたい500円~1,000円。白い皮の独特の見た目と,サツマイモのような独特の食感が魅力。

 カットされていて,電子レンジで温めればすぐ食べられるものもあり,お手軽なのはこちら。確か1袋200円とお得。

 

 

なかにし礼の『音楽への恋文』

 クラシック音楽を聴くようになったばかりの頃に読んで大きな影響を受けた本に,なかにし礼著『音楽への恋文』というものがある。1987年に共同通信社から出たエッセイ集で,その後新潮文庫から『音楽の話をしよう』と改題されて出ていたが,現在はどちらも絶版のようである。

 そのエッセイの中で,非常に心に引っかかっているものがあるので,書いておく。

 

 それは,「ユダヤ音楽祭」というエッセイである。内容は次のとおり(ここで言いたいことに関係ない部分は割愛する)。

 年は明らかでないが,なかにし氏がCDプレーヤーを買った年の8月21日のこと。神奈川県民ホールにズービン・メータ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会を聴きに行った。曲は,ブラームス交響曲第4番,ブロッホヘブライ狂詩曲《シュロモ》,ワーグナーの《ニーベルングの指環》抜粋。当時メータは48歳。

 1曲目のブラームスが気に入らなかった。まず,メータの腕と指の動きが気にくわない。軽薄で,品がない。そして,いい音は鳴っているが,何も感じない。メータには繊細さ,思想性,哲学性…が欠けている,と思う。

 一方,ユダヤ人作曲家による《シュロモ》は,ブラームスとは魂の入れ方が違い,違いすぎて不愉快なくらい。指揮は入念であり,演奏はこまやかであり,クライマックスは星空に燃えあがる炎のような情熱のほとばしりを見せる。…(中略)…久方ぶりに,音楽を愛する人間で良かったと思った。音楽をやるとはこういうことであり,音楽を聴くとはこういうことだ。

 それに対して,ブラームスはなんだったのだ。君たちユダヤ人は古典音楽をもてあそんで,気の抜けた演奏を聴かせるのだ。古典音楽の衣でヘブライ精神の鎧を隠して,着々と勢力を拡大してきたのだろう。もはや,クラシック・イズ・ユダヤなのだ。そのおかげで,ブラームスが間抜けに見えて,ブロッホが賢者に見えたりするから,危険なのである。

 いっそ,第1回ユダヤ音楽祭というのを開いたらどうか。そのとき,世界は真っ白けに白けてしまうだろう。しかしユダヤ人たちは一堂に会しないだけで世界各地で,日ごと夜ごと,個別に,ユダヤ音楽祭を開き,ユダヤのにおいにみちあふれた音楽を振りまいている。

 

 その頃,なかにし氏と言えば,芥川也寸志氏,木村尚三郎氏とともにN響アワーに出演しており,初心者の自分にとっては神のような存在と言っていいほどであった。そのなかにし氏が上記のように書いていたら,信じるしかない。

 ということで,これを読んでからは,ドイツ音楽,特にベートーヴェンブラームスブルックナーを聴くときには,その演奏家ユダヤ人かどうかということばかり気にするようになってしまった。そして,可能な限りユダヤ演奏家によるものは避け,たまたま聴いていいなと思っても,これは偽物なんだと思うようになってしまった。

 何と言うことだ。

 今なら,こんな暴論は鼻で笑える。じゃあ,イタリア人のやるドイツ音楽はどうなんだ,とか,具体例を挙げていくらでも反論・反証できる。いや,そもそも今ならこんなエッセイは出版できないだろう。しかし,当時はそうは行かなかった。この呪縛から逃れるには,随分と時間がかかった。しかも,ヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターのように,おそらく間違ってユダヤ人と書かれていた人もいて,更に迷惑したのであった。

 思い出してみると,あの頃,今より遥かに情報が少なかったにもかかわらず,なぜかある音楽家がユダヤ人かどうかというのはすぐに分かった。雑誌やその増刊号のようなもので音楽家のプロフィールが載る場合,ユダヤ系だと必ず「ユダヤ系○○人」と書いてあったからだ。今はあまりそういう表記は見ないように思う。とすると,なかにし氏に限らず,クラシック音楽界において,その人がユダヤ系かどうかということをひどく気にする勢力があったということだろうか。もちろん,自分が気にならなくなったからかもしれないが。

 今でも時々,この呪縛に引っかかっていた頃を思い出し,おぞましい感じがするとともに,実にもったいない時間を過ごさせられたと,怒りを感じるのである。

 確かにメータのブラームスは良くなかったかもしれない。実際,CDやテレビなどで,メータのベートーヴェンブラームスを聴いて,いいと思ったことは,ほぼない。だからと言って,ユダヤ系の人のドイツ音楽が全部ユダヤ的で気が抜けていてつならないなんてことはない。ドイツ人指揮者のやるドイツ音楽だって,気の抜けたつまらないものはある。

 なかにし氏のおかげで,いちいち「血の正統性」ということにひどく拘るようになってしまった。ドイツ音楽に限らず,フランスものでも,ロシアものでも,何でも。この指揮者は何人か?ユダヤ系か?と。今は違うが,そのおかげで失った時間は,あまりにも大きかった。

 

 この本では,もう一つ,その後の音楽の聴き方に強い悪影響を受けたエッセイがある。「さらばカラヤン」というエッセイだ。

 このエッセイのおかげで,カラヤンのCDを聴いて素晴らしいと思っても,どこか引っかかるものを感じるようになってしまった。もっとも,ユダヤ系の人のやるドイツ音楽よりはずっと早くにその呪縛から逃れることはできたが。

 

 この本には,まさに音楽への愛に満ちたいいエッセイも入っているので,惜しいのだが,残念ながら,上記2つのおかげで,現在は悪本としてお蔵入り状態である。

 このブログを書くために,30年ぶりくらいで引っ張り出したが,読む気はしない。むしろ,「ユダヤ音楽祭」を改めて読んで,気分が悪くなった。今回,「さらばカラヤン」も読んではいない。かといって,古本屋に持って行くつもりもないのだが。

 それにしても,若い頃に読んだものの影響というのはなかなかに大きいものだ。それなりの人は,それなりの責任感を持って文章を書いてほしいと思った次第である。

 

 

ブロムシュテットのベートーヴェン交響曲全集

 今年(2017年),NHK交響楽団の名誉指揮者でもあるヘルベルト・ブロムシュテットが,かつての手兵であるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と,ベートーヴェン交響曲全集のCDを出した。

 ドイツのアクツェントゥス・ミュージックの制作で,国内盤はキングレコードから出た(KKC5802)。2014年5月から2017年3月にかけてのライヴ録音。

 ブロムシュテットベートーヴェン交響曲全集は,2回目の録音で,1度目は1975年~80年にシュターツカペレ・ドレスデンと録音している(レコード芸術12月号の巻末新譜一覧表で,「ベルリン国立o.と全集を録音していた」とあるのは,誤り)。

 今回の全集は,いきなりライヴ録音ということで出てきたので,リリースのアナウンスを見たときは,どうせ放送用に録音されたライヴの寄せ集め(MDR KULTURのマークが入っている)で,たいしたことないだろうと思い,ほぼノーマークだった。ジャケットも,ブロムシュテットのアップの白黒写真で,デザインに凝ってるようには見えないことも,そう思わせる一因だった。

 ところが,MUSICBIRDで放送されたものを聴いて,それが全く誤りであることがすぐ分かった。とても気に入ってしまい,すぐに買ってしまった(輸入盤)。ついでに,ずっと買おうと思っていたシャイーとゲヴァントハウス管の全集まで買ってしまった。

 ライヴ録音とはいえ,きちんと丁寧に作られた全集であった。シャイーとは異なり,交響曲9曲だけで,序曲等はついておらず,第1番から第9番まで番号順に納められている。

 拍手は全てカットされていて,会場ノイズもほぼ皆無。演奏の傷もほとんどない(傷なのか解釈なのか分からないレベル)ので,言われなければライヴとは気が付かないほど。

 

 楽譜は,ベーレンライター版を基本にしているらしいが,第9番の第1楽章の第2主題ではB♭にするなど,ブライトコプフ旧版も部分的に採用している。この部分は,ベーレンライター版の音はどう聴いてもおかしいので,ブロムシュテットの見識の高さが分かる。ここは,アバドやシャイーも同様。

 一方,第3番の第1楽章の最後の所のトランペットによる旋律化はしていない(個人的には,思いっきりトランペットを吹かせてほしいが)。

 

 演奏は,いろんなところでベートーヴェンメトロノーム記号に従った非常にテンポの速い演奏であるように書かれているが,実際はそうではなく,第9番のように全体的にかなり速いものもあるが,多くは中庸のテンポである。むしろ,カラヤンなどの方が速い。例えば第5番の第1楽章とか,第7番の第1楽章,第4楽章など,メトロノーム記号に従っていることを売りにした録音が出てくる以前の録音と比較しても,全然速くない。もちろん,遅めのテンポを取っているわけではないが。

 シュターツカペレ・ドレスデンとの旧盤は,正攻法な表現の指揮と,いわゆるドイツ風の「ざっくりとした弦」に鄙びた木管,しっかり鳴っているが決して突出しない金管,ペタペタという独特のティンパニの音が絡む,いかにも東ドイツ風のオーケストラによる,独特の味のある演奏だった。

 今回の演奏は,それとは随分異なり,非常に洗練された演奏になっている。ライヴだが,隅々までコントロールされていて,「おやっ」という瞬間はほぼない。しっかりと手応えのある音だが,軽やかな音である。独特の雰囲気がある。聴いていてとても気持ちがいい。バスがしっかり土台を作っていて,とてもよく整理された響きである。ベルリン・フィルのような圧は感じない。

 モダン楽器による正攻法な演奏で,いわゆるピリオド奏法を取り入れたりはしていない。ラトルのように,突然部分的に(効果を求めて)ピリオド奏法を「擬態」(金子建志先生の表現)するようなこともないので,最初から最後まで安心して聴ける。

 ベートーヴェンを聴いたという充実感の得られる演奏である。

 なお,第9番では,合唱がとても美しい。マズア以来の伝統と言っていいと思うが,児童合唱も入っている(シャイー盤も同様)。アルト独唱が藤村実穂子というのもうれしい。それと,ブロムシュテットの演奏に限らず,いつも第九を聴くと思うのだが,もの凄く歌いづらそうだ。特に独唱がそうで,その中でもテノールは一番ひどい。朗々と歌っていて気持ちよく聴ける演奏は,ほとんど聴いたためしがない。第九だけでなく,ミサ・ソレムニスも,歌いにくそうに聴こえる。ベートーヴェンは,声を扱うのが苦手だったのだろうと思う。

 

 さて,このCDの解説(ユリア・スピノラ/余田安広訳)に「サウンドの温かさと演奏の精密さは両立しない,という誤った認識をブロムシュテットは捨てた」とあり,レコード芸術11月号160ページからの増田良介氏と12月号月評の満津岡氏がともに名言であるかのように取り上げているが,全くそうは思わない。増田氏は,この一文を取り上げて,「虚を突かれる思いがした」と述べており,満津岡氏は,「当セットのライナー・ノーツに~と記されている通りであり」と述べている。

 「捨てた」ということは,それまではブロムシュテットは「サウンドの温かさと演奏の精密さは両立しない,という誤った認識」を持っていた,ということになるが,そうではないだろう。そんなことを言われたら,ブロムシュテットは「そうじゃない!全然分かってないな!」と言うのではないか。

 これまでずっと両立させようと努力してきたからこそこれだけの演奏に到達できたのであって,認識を捨てればすぐ達成できるものではないだろう。しかも,おそらく,このCDも到達点(ゴール)ではなく,あくまで現時点でできるだけのことをした結果だ,と言うのではないか。

 この文章,傲慢な上から目線の評論家が自分の文章に酔いながら書いたように思えて,気分が悪い。また,その文章に目を付けたと得意気になっているように見える日本の評論家も気持ちが悪い。

 とここまで書いて,やはり釈然としなかったので,解説書の原文(ドイツ語)を読んでみると,次のように書いてあった。

 Blomstedt räumte mit dem Missverständnis auf, dass Wärme des Klangs und Präzision des Zusammenspiels einander ausschließen.

 問題は下線のところ,aufräumenとdemで,aufräumenは辞書を引くと,後にmitが続くので「排除する」「一掃する」という意味であり,ブロムシュテット(彼の)「~という誤った認識を捨てた」ではなく,ブロムシュテット(世間の人々の)「~という誤った認識を一掃した」という意味で,つまりは,ブロムシュテットは(世間の人々の)「~という認識が誤りであったことを証明して見せた」といった趣旨だろうと思う。

 そうすると,全くの誤訳であり,その一文を「いかにもそのとおりだ」というように取り上げた日本人評論家の評は,何とも恥ずかしい限りである。

 それでも,スピノラ氏の言いようは大仰で好きではない(ドイツ人らしい持って回って言い方,と言うべきか)が,そうは言っても,温かい響きと演奏の精密さが非常に高い次元で両立しているのは確かであり,その認識自体には全く賛成である。

 ここ十数年で発売されたベートヴェンの交響曲全集の中では,特に優れたものであることは間違いないと思う。