福島県飯舘村「ゑびす庵」のうどん

 福島県飯舘村の食堂「ゑびす庵」に行ってみた。

 飯舘村は,東京電力福島第一原子力発電所の事故で全村避難させられ,この3月31日に大部分の避難指示が解除されたばかり。

 その飯舘村で初めて食堂の営業が再開した。飯樋地区にある「ゑびす庵」で,4月23日に飯舘村の元の場所で営業を再開したのだ。原発事故後は福島市内で営業していたという。

 

 店内はリフォームしてきれい。テーブル席と座敷があり,座敷は掘り炬燵のようになっている。テーブル席の椅子は丸太なので,長時間座っているのはつらそう。

 営業時間は11時から15時だが,予約すれば夜もやってくれるらしい。定休日は火曜日(祝日の場合は営業)。

 お酒も提供しており,焼酎にはゑびす庵オリジナルのボトルもある。

 

 1番人気という「五目うどん」(950円)を注文した。

 茹で上がるまで結構時間がかかるので,行くときは余裕を持って行った方がいい。

 太めのうどんに野菜がたっぷり乗っている。お新香付き。うどんはそれほどコシの強いものではない。讃岐うどんみたいにコシが強くて固い麺が苦手な人には好まれるだろう。野菜はあんかけにはなっていない。ボリュームたっぷりで食べ応え十分。美味しくいただいた。

※後日,再訪したときは,麺がもう少しコシがしっかりしていて,よりおいしかった。

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 今度また行く機会があれば,2番人気だというの「肉うどん」を食べてみたい。ご飯ものもあるので,それもいいかも。丼ものだけでなく定食もある。

 

 難しいことは分からないが,被災地を応援するのに美味しいものは一番だ。気軽にできる。

 以前,飯舘村農家レストラン「気まぐれ茶屋ちえこ」のどぶろくを飲んだことがある。今は福島市飯野町に避難しているらしいが,甘さ控えめの甘酒にアルコールが入っているみたい。アルコール度数が高いのにいくらでも飲めて,かなりヤバイ。

 

 【ゑびす庵メニュー】

◎うどん 大盛100円増 特盛200円増

ゑびす庵うどん(海老+玉子) 1,100円

海老天ぷらうどん 850円

五目うどん(野菜たっぷり) 950円

鍋焼きうどん 850円

親子うどん 800円

肉うどん 700円

玉子うどん 700円

月見うどん 600円

かけうどん 500円

ざるうどん 550円

ぶっかけ皿うどん(夏季) 900円

 

◎丼・定食 大盛100円増

カツ丼 850円

肉丼 800円

親子丼 800円

玉子丼 600円

カツ定食 1,000円

野菜炒め定食 900円

煮込みカツ鍋定食 800円

焼き魚定食(つぼ鯛) 900円

 

◎飲物

生ビール(中) 500円

瓶ビール(大瓶) 600円

お酒(コップ) 300円

焼酎(グラス) 350円

焼酎900mlボトル(麦) 2,300円

焼酎900mlボトル(芋) 2,300円

焼酎720mlオリジナルボトル(麦) 2,000円

焼酎720mlオリジナルボトル(芋) 2,000円

ジュース(各種) 150円

 

◎単品

海老天2尾 350円

かきあげ 150円

ごはん(大) 150円

ごはん(小) 100円

 

ウィーン・フィルは変わったのか~新譜ラッシュに思う

 このところ,急にウィーン・フィルの新譜が出るようになった。

 ここ数年,出るものと言えば,ニューヤー・コンサートとシェーンブルン宮殿コンサートのライヴくらいで,まともな録音はほとんどなかた。何せ,小澤さんが国立歌劇場の音楽監督だった頃,正規の録音は1つもなかったくらいなんだから,どれだけ録音を忌避していたのかと思う。

 それが,ドゥダメルとの《展覧会の絵》,ビシュコフとのフランツ・シュミット,ノットとの《大地の歌》など,新しい録音が次々と(と言っていいのかはまだよく分からないが)出ている。しかも,ドゥダメルビシュコフはセッション録音である。

 さらには,ネルソンスとのベートーヴェン交響曲全集も進行中である(ライヴ)。

 こういった録音がこれから継続的に行われるとすれば,非常に嬉しい。

 

 そこで1つ気がついたことがある。『レコード芸術』2017年5月号の「先取り!最新盤レヴュー」でビシュコフとノットのCDが取り上げられているのだが,ビシュコフのフランツ・シュミットについては,佐伯茂樹氏が「久々に天上的に美しいウィーンの音世界を堪能することができた」と述べており,ノットの《大地の歌》については,中村孝義氏が「実際に聞こえてきたのは,そうした予想を遥かに上回る,全く新しい「絶美」の世界」と述べている。どちらも,音の美しさを絶賛しているのだ。

 ここ最近で言うと,あのウィーン・フィルが指揮者の「解釈」にどれだけ応えているか,という点が問題にされたと思う。それが,ストレートに「美しさ」を讃えられるというのは,何かが変わってきたと思わざるを得ない。

 これが,ウィーン・フィルの進むべき道を示している,というかオケ自身が「気づいた」ということなのかなと思うのである。すなわち,もはや「解釈」ということでは,オーケストラ自体の差別化は難しい。はっきり言って,今「最先端」と言われる指揮者の「解釈」に応えるということでは,ドイツ・カンマーフィルやマーラー室内管などにはかなわないと思われる。ウィーン・フィルが自らの存在価値を考えたときに,そこにあるのは,伝統と「音の美しさ」だということに気づいたのではないか。

 ライバルのベルリン・フィルは,おそらく,自らの存在価値を「モダン・オーケストラとしての最高の機能性」にあると考えているのではないかと思う。そして,それに向けて邁進している。それに比べて,ウィーン・フィルの方は,何を目指しているのかがここしばらくはよく分からない状態が続いていた。

 今回,そういった状況から脱し,進むべき方向性をはっきりと見定めたということなのではないか。

 

 ここ最近の新譜3枚はいずれも未聴だが,はっきり言って,ノットとウィーン・フィルとの《大地の歌》など,全く期待していなかった。しかし,中村氏の評を読んで,ぜひとも聴かなければと思った。

 《大地の歌》はテノールとアルトで歌われる方が好きだし,カウフマンだったら,アバド指揮ベルリン・フィルとの演奏(NHKでも放送され,デジタル・コンサートホールでも見ることができる)を是非CD化してほしいと思うのだが。

 

 それと,ベートーヴェン交響曲全集は,ネルソンスでなくドゥダメルとやるべきたったと思う。ただ,最近のドゥダメルは迷っていて伸び悩んでいる感じがするので,今のタイミングではやらなくて正解だったかもしれない。

 これも『レコード芸術』からだが,4月号の月評で,ドゥダメルのニューイヤー・コンサートのBD/DVDが取り上げられているが,ここで山崎浩太郎氏が書いていることは,まさに自分が思っていたことと同じで,やはりなと思った。すなわち,「ヨーロッパの伝統のなかで自分がどう進んでいくのか,30代半ばを迎えて迷いがあるようにも思えた。「偉大なるマンネリズム」のなかにあるウィーンに新風をもたらすことを,次回の挑戦の際には期待したい。」と。

 

 

追記

 ドゥダメルとの《展覧会の絵》ほか(グラモフォンUCCG-1756)を聴いた。イマイチだった。名盤がたくさんある曲なので,それらに比べて何か飛び抜けてすごいところがあるかというと,ない。録音も,セッション録音なのに今ひとつ冴えない。

 冒頭から音を短めに進めるのにまず違和感を感じた。オケはもっと伸ばしたいのだろうか,音の切り方が全体的に雑。本当はもっと粘りたいのだろう。ドゥダメルの解釈と齟齬があるように思えた。あっさりなのに雑,という感じ。迫力も足りず,物足りない。

 オケは金管が弱い。特にトランペット。昔からトランペットはヘタウマの部類に入るオケだったが,それでも独特の鄙びた音色と時折聴かせる鋭い音が特徴で,すぐウィーン・フィルだと分かったものだが,今は普通に巧くないだけになってしまった。

 ドゥダメルらしさ,つまり弾けた感じはほとんどなく,大人しい。ベルリン・フィルとの《ツァラトゥストラ》ほか(グラモフォンUCCG-1632)あたりから感じていたのだが,迷いが出てきているのではないか。2012年のシェーンブルン宮殿ライヴはまだ結構弾けていた。壁にぶち当たっているように思う。

 

 

追記2】

 ビシュコフ指揮のフランツ・シュミットの交響曲第2番を買った(ソニークラシカル SICC30428)。

 どうせならハイレゾを買おうかと思ったが,ブックレットが付かないのでやめて,CDにした。このCDのブックレットはなかなか気合いが入っていて,充実している。まずは,「ウィーンの森のささやき」と題したハラルド・ハルスマイア(木幡一誠訳)による解説が5ページ。次いで,木幡一誠による「閉じた解答としての音楽-ビシュコフウィーン・フィルで聴くシュミットの交響曲第2番」と題した解説が3ページ。その後に,フランツ・シュミットの年表が6ページ。そして,「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるフランツ・シュミット作品演奏記録」が8ページ。最後に,セミヨン・ビシュコフバイオグラフィーが1ページ。これだけ充実した内容のブックレットは,今時珍しいのではないか。

 演奏自体も,かなり時間をかけて丁寧に作り込まれたのではないかと思われる。というのも,CDの演奏は2015年9月1日~4日にムジークフェラインでセッション録音されたもので,これだけでも時間をかけているなと思うのだが,その前後にこのコンビはこの曲を何度も演奏会で採り上げているのだ。

 2014年5月17日,18日 ムジークフェライン(第9回定期演奏会

 2014年5月19日 ムジークフェライン(第5回ソワレ)

 2015年8月30日 ザルツブルク祝祭大劇場(ザルツブルク音楽祭

 2015年9月10日 ロンドン,ロイヤル・アルバート・ホール(プロムス)

 2015年9月20日 コンツェルトハウス

 2015年9月21日 リンツブルックナーハウス(リンツブルックナー音楽祭)

 これだけ,2年にもわたって,同じ指揮者と1つの曲(それもマイナーな曲)を何度も採り上げるというのは,珍しいのではないか。その辺の事情はブックレットには記載はなかった。

 なお,2015年9月20日の演奏はMUSIC BIRDのTHE CLASSICで今年の4月29日に放送されている。また,ブックレットでは,この9月20日の演奏会では,ほかにブラームス交響曲第3番が演奏されたと書かれているが,ハイドン交響曲第44番とワーグナーのヴェーゼンドンク歌曲集の誤りである。

 それで,演奏の方だが,ほかにはネーメ・ヤルヴィ指揮シカゴ交響楽団の演奏(シャンドス)くらいしかないので,善し悪しはよく分からない。どちらかというと,ヤルヴィ盤の方が元気がいいという感じがするくらい。

 曲は,第1楽章と第3楽章はゆっくりで茫洋とした感じ。特に3楽章はよく分からない。面白く聴けるのは,10の変奏曲からなる第2楽章。速いテンポで駆け回る部分があったり,《ノートル・ダム》間奏曲を思わせる,ゆっくりでとても美し部分があったりして,飽きさせない。

 このCDで1つ残念なのは,カップリングがR.シュトラウスの《インテルメッツォ》からの4つの交響的間奏曲の第2曲「炉端のまどろみ」だけという点。4つの交響的間奏曲全部でも25分に満たないくらいなので,どうせなら全曲入れてほしかった。

 

 

追記3】

 2018年に入って,またニューイヤーとシェーンブルン宮殿のライヴしかCDが出なくなってしまった。昨年のことは一過性だったのか。そうだとしたら本当に残念。

 

NHKに商品化を望むもの

 まずは,1987年3月にアバドウィーン・フィルが来日してサントリーホールで演奏したベートーヴェン交響曲全曲

 NHKがFMで放送していた(生中継と,11月3日に再放送)ので,音源が残っていれば何としてもCD化してほしい。特に第9番を。YouTubeで一部が聴けるが,全曲CD化してほしい。こういうのを火の玉のような演奏というのだろう。こういう演奏をするから,アバドは面白かったのだ。ウィーン・フィルも,きれい事の演奏をしておらず,すさまじかった。

 

 

 クラシックではないが,NHKが収録していた1983年12月のYMOの散開コンサートを。「AFTER SERVICE」でCD化されているのは別の日のもの。

 FMで生中継したらしいが,12月31日にテレビで「YMO SPECIAL」という番組が放送され,コンサートの様子だけでなく,メンバー3人それぞれの様子を映したVTRが面白かった。特に,伊武雅刀と遊んでいる細野晴臣のコーナーが最高!

 東風やSOLID STATE SURVIVORはアレンジが「AFTER SERVICE」のものとは異なっており(特に,坂本龍一のキーボードと高橋幸宏のドラム),SOLID STATE SURVIVORは頭にドラムの1撃があって最高に格好いいのだ。

 YouTubeで見ることができるが,是非,「完全版」としてブルーレイで出してほしい。

 

 ほんと,お願いします。

 

 

祝!レコード芸術創刊800号

 『レコード芸術』が2017年5月号で創刊800号を迎えた。

 1988年5月号以来,1号も欠かさず購読してきた。29年になる。これだけ長い間購読した雑誌はないし,全部取ってある。すごいことだ。田舎に住んでいたときは,発売日に買うのが大変なときもあった。452号からなので,349冊買い続けたことになる。半分までは行かないが,4割以上は購読していたことになる。

 452号の定価は850円。801号からは付録CDがなくなって本体価格が1,300円となる。単純に比較すると53%の値上がり。しかし,ページ数はかなり減っているので,実際はもっと値上がりしている計算になる。452号は数えると446ページ。800号は316ページ。800号の定価(本体価格)を1,300円とすると(実際は,付録CDと特別付録が付いているので,特別定価1,667円となっている。),1ページ当たりの単価は,452号が1.9円で800号が4.1円となる。ということは,116%の値上がりとなる。

 ちょうど,この4月から,MUSIC BIRDのTHE CLASSICで「片山杜秀パンドラの箱」の再放送をしており,この4月9日には2010年5月28日放送の「音楽雑誌と口蹄疫」が放送されたところだった。そこで片山さんは,「音楽雑誌が売れない売れないと言われ続けてもう10年以上経ちました」と,廃刊が続く音楽雑誌受難の時代について語っていた。そんな中,おそらく本質は変わらずに生き残ってきた『レコード芸術』は大したもんだと言っていいのだろう。

 

 452号をざっと見て思うのは,カラーページが多いのと,レコード会社の広告が多いこと。発行部数の推移は分からないが,やはりそれだけ売れていたのだろう。

 特集は「西ドイツのオーケストラ」。「西ドイツ」という名前自体が時代を感じさせるが,このときは壁が崩れるなんて全く想像もしてなかったと思う。<その1>として諸井誠さんの「西ドイツのオーケストラ随想」という文章が4ページあり,<その2>では「レコードでたどるその歴史と魅力」と題して,オーケストラごとの記事が書かれている。最初がバンベルク交響楽団(首席指揮者=ホルスト・シュタイン)で,最後がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(音楽監督=ヘルベルト・フォン・カラヤン)。当然,お勧めのディスクが紹介されているのだが,この当時はまだCD化されていないものも多く,ベルリン・フィルの「ベスト・5・レコード」では76年のカラヤン指揮のチャイコフスキー『悲愴』が紹介されており,早くCD化されないかと心待ちにしたものである。

 452号からの新連載は「レコード芸術名盤コレクション 蘇る巨匠たち」で,レコード会社とタイアップしてCD化されていない名盤を毎月1枚ずつCD化するというものだった。第1回はフルトヴェングラーベートーヴェン交響曲第5番と《エグモント》序曲。このシリーズでは,セルの《エグモント》全曲を買った。

 月評は,交響曲では特選盤がアバドベートーヴェン交響曲第7番・第8番,同じくチャイコフスキーの《悲愴》,シャイーのマーラー交響曲第10番ほか。ほかには例えばデュトワビゼー,マリナーのレスピーギ,ゲーベルの《ブランデンブルク協奏曲》,プリッチャードの《イドメネオ》などが特選盤になっていた。オペラだけで新譜が7組も出ており,今では考えられない状況。

 CDは簡単には買えないので,毎日,NHK FMでカセットテープにエアチェックしていたものだ。

 当時は時間もあり,どの記事も繰り返し読んだものだが,1つ取り上げると,「追跡レコード批評」というコーナーで三浦淳史さんと中矢一義さんが海外雑誌の評を紹介していた。今の「海外録音評パトロール」(今も中矢一義さん!)の前身と言える記事だが,452号では三浦さんがカラヤンブラームス交響曲第1番と第2番を取り上げている。どちらもずっと愛聴しているCDなので,とても懐かしい。特に,第2番の記事は思い出深い。『グラモフォン』誌のアラン・サンダース氏の「いうなれば秋を想わせるような熱情をもって指揮しており,BPOの演奏には豊かな白熱の輝きがある」という文章はよく覚えていて,今でも秋が近づくとこの曲(特にこの演奏)が聴きたくなるし,『ル・モンド・ドウ・ラ・ミュジック』誌のシェルスノヴィッチ氏の「カラヤン自身の1955年盤と比較すると,昔の踊るような感じは抑えられているが」という文章を読んで1955年盤がとても聴きたくなったが,当時はCD化もされておらず,実際に聴けたのは相当後になってからだったことなどを思い出して懐かしい。もっとも,今はこの1986年盤と,同時期に収録されたDVD(こっちの方が4楽章などは明らかにテンポが速く勢いがある),そして1977・78年盤の3つが自分にとってのベスト盤になっており,よく聴いている。

 

 

 800号での重大な告知の1つが,付録CDの廃止だった。元々いらないと思っていたので,廃止されて値段が下がるのはありがたい。

 今回の付録廃止で,定価(本体価格)は1,400円から1,300円になるという。100円の値下げである。

 では,付録CDが始まった頃はどうだったかというと,1996年3月号(通巻546号)から始まったのだが,2月号と比べて定価(本体価格)は243円(消費税3%込みで250円)の値上げだった。

 それが今回は100円の値下げなので,付録廃止にかこつけて値上げしてるんじゃないか!とも思うのだが,そこはCDの原価が下がったからだということにしておこうと思う。

 

 値段のことばかり書いたが,それはこれからも買い続けるから。まずは1000号を目指して頑張ってほしい。

 

 

今村復興大臣の「自己責任」発言に思うこと

 今村復興大臣が自主避難者について「自己責任」だと言ったことについて,マスコミなどがしたり顔で「本音が出た」などと書き立てているが,そんなことはみんな分かっていることだ。自主避難者とその支援者以外の多くはそのとおりだと思っているし,自主避難者たちもそのとおりだと思われていることは分かっている。

 今回の発言が怖いのは,その中身よりもあのキレ方の方だ。1国の大臣としての資質が問われる,というか全くないことを改めてさらけ出したということ。

 もし,実績を上げた大臣が,冷静に,落ち着いて,論理的に反論したのなら,随分違っただろう。

 しかし,実績もなく,威張り腐ってブチ切れた大臣がああいう場面でああいう態度を取ると,怖ろしさしかない。

 既に,避難指示が解除されて帰還しない人たちは,自主避難者だという人もいる。そのうち,今村大臣もそういうことを言い出すに違いない。

 

 【追記】

 やはりと言うべきか,新たな問題発言で今村氏が復興大臣を辞任した。発言内容からして,辞任するしかなかっただろう。それにしてもあんなことをわざわざ言って辞めることになるとは,本当のバカだ。早く辞めてもらってよかった。

 こんなバカはどうでもいいが,それより気味が悪いのは二階幹事長の方だ。そして,二階幹事長の発言をほとんど問題にしないマスコミである。

 何かものすごい嫌な予感がする。本当に危険なのは二階氏の方だろう。今村氏など,いてもいなくても大した害はないが,二階氏は違う。この辺が歴史のターニングポイントだった,なんてことにならないといいと心底思う。

 

 

ネルソンス指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン《英雄》

 3月25日にMUSICBIRDのTHE CLASSICでアンドリス・ネルソンス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会が放送された。

 曲目は,

ハイドン交響曲第102番変ロ長調Hob.Ⅰ:102

②イヴァン・エレート:3本のクラリネット管弦楽のための三重協奏曲Op.92(初演)

バリー・マニロウコパカバーナ(ザ・クラリノッツ編)(アンコール)

ベートーヴェン交響曲第3番変ホ長調Op.55《英雄》

 クラリネットは,ザ・クラリノッツ(エルンスト,ダニエル,アンドレアスのオッテンザマー親子)。

 2016年1月10日にウィーンのムジークフェライン大ホールでORF(オーストリア放送協会)が収録したもの。

 

 メインのベートーヴェンは,ネルソンスとウィーン・フィルドイツ・グラモフォンに録音する全集の第1弾となるもの。この後,1月12日にも同じプログラムで演奏しているようで,これらの演奏会にゲネプロの音源等合わせて編集したものをCDにするのだろう。

 

 ということで,《英雄》なのだが,演奏時間は,おおよそ,

第1楽章:18:14,第2楽章:16:04,第3楽章:5:40,第4楽章:12:06

といったところ。

 第1楽章と第2楽章が今どきの演奏としてはかなり遅め,第3楽章は早め,第4楽章はやや遅めといえるだろう。

 

 ネルソンスとウィーン・フィルなので,基本的にはモダン・スタイルの演奏。しかし,所々でピリオド奏法を意識したようなところがあり,何だか中途半端。

 テンポや強弱を不自然に動かすので,流れがとても悪い。

 そして,音が前に出てこない。特に木管が弱く,メロディを吹いているところでもほとんど聞こえなかったりする。弦も,第1ヴァイオリンが弱く,内声部とのバランスが整理されていないようで,聞いていて安定感がない。金管も所々では咆哮するが,全体的には弱め。

 メロディを意識していないようで,どんな曲なのか分からない。頭の中で補完しながら聞くことになり,すごく疲れた。

 第1楽章で何度か和音をトゥッティで鳴らすところがあるが,アーノンクールばりに力み返っている割に,本当の迫力は出ていないように思った。

 

 第1楽章は,演奏時間は長いが,第1主題は割と速めのテンポで始まるので,その後極端に遅くするところがあるということ。終わり近くのトランペットは,旋律を1回目は最後まで吹かせ,2回目は吹かせない,というやり方。それはいいとして,2回目は木管が旋律を吹くわけだが,これがほとんど聞こえず,弦の伴奏しか聞こえないという奇妙な演奏になっている。完全なバランスミスだろう。

 第2楽章は,葬送行進曲なのに妙に明るいのがネルソンスらしい。

 第3楽章でようやく乗ってきた感があり,主部は猛烈なテンポで進む。

 しかし,第4楽章に至っても不自然さは最後まで残ったまま。最後の和音は短く切って終わる。

 

 これから順次録音して全集になるわけだが,前途はかなり厳しいと思った。何というか,一本筋が通っていない感じ。これがCDになったとして,繰り返し聞くのはかなりしんどい。

 演奏後の拍手も随分と少ないように思った。

 

 

 この後,カラヤンウィーン・フィルによるブルックナーの7番と8番のCDを聞いたのだが,曲は最低だが演奏は極上だった。ネルソンスの演奏とは,同じウィーン・フィルとは思えないし,満足感が全く違った。

 

 

 また,ベルリン・フィル・デジタル・コンサート・ホールに3月23日のキリル・ペトレンコとの演奏がアップされており,モーツァルトの《ハフナー》とチャイコフスキーの《悲愴》の一部を見たのだが,かなり凄い演奏だったようだ。

 やはり,ペトレンコは,最近売れているほかの中堅・若手(ネルソンス,ソヒエフ…など)とは全く格が違うようだ。

 詳しくはじっくり見てから書いてみたい。

 

 

原発事故の前橋地裁判決は本当に一部「勝訴」なのか

 3月17日に,福島県から群馬県に避難した45世帯137人が東京電力と国に慰謝料などの損害賠償総額約15億円を求めた訴訟の判決があった。

 大方の新聞は,東電と国の「過失」を認め,損害賠償責任を認めた画期的な判決であると評価しているが,果たしてそうだろうか。

 東電の責任は,「原子力損害の賠償に関する法律」で無過失責任とされており,過失の有無は損害賠償責任の有無自体には関係がない。国の責任も,東電が無資力ならともかく,資力がある以上,賠償金をもらえるかどうかには直接関係がない。

 

 住民からすれば,幾らもらえるかが問題なのであって,原告団の弁護士や代表が言うような「東電と国の過失の有無」はどうでもよいのである。

 

 そういう意味からして,今回の判決が勝訴とは到底言い難いと思う。

 原告のうち,請求が一部でも認められたのは62人に過ぎず,賠償金の額も3855万円に過ぎない。

 1人当たりにすると,7万~350万円でしかないという。この中には,避難地域の方も自主避難者の方も入っており,総じて自主避難者は金額が低いようだ。これでは,別に東電と国の過失などには関係なく,事情を丁寧に主張・立証すれば,個別にADRで戦っても認められた金額ではないのかと思う。

 

 このように,実際には勝ったとは到底言えない判決内容で,勝った勝ったと書き立てるマスコミに気持ち悪さを感じる。

 「お金が欲しいんだ(必要なんだ)」という生々しいところにあえて蓋をして,金額でなく国の責任を問題にしているんだという高邁な主張をしているかのように書くマスコミは,何を意図しているのだろう。

 こんなことでは,避難住民が本当に救われることはないと思う。

 この判決で,国の避難者支援の政策が充実するとは思えないからである。

 

 

インバル指揮 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団演奏会

2017年3月15日(水)

福島市音楽堂

開場:18時

開演:18時30分

曲目:

 ①モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

 ②マーラー交響曲第1番ニ長調《巨人》

 (アンコールなし)

演奏者:

 上原彩子(ピアノ)

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

 指揮:エリアフ・インバル

 

 マーラーといえばインバル。インバルといえばマーラー。そのインバルが来てくれるとは!!!見た瞬間,背筋がゾクゾクした。そういえば,現役の指揮者で一番好きな指揮者って,インバルかも,って思った。

 オケは,旧東ドイツ(東ベルリン)のベルリン交響楽団が2006年に改称したもの。インバルは2001年から2006年まで首席指揮者を務めていた。ピアノは2002年の第12回チャイコフスキー国際ピアノコンクールで1位を取った上原彩子

 

 ステージに現れたインバルは意外と小柄だな,と思ったら,上原彩子はもっと小柄だった。スカイブルーの素敵なドレスを着て,颯爽と現れる。

 オケは今時にしては大きめの編成。コントラバス4本。こうでなくては,見栄えがしない。演奏が始まると,インバルらしく,ピリオドスタイルなど全く関係なしの演奏。上原のスタイルにもマッチする。

 このホールは残響がありすぎるせいか,ピアノは細かい音が聞こえず,オケは特にヴァイオリンの音が聞こえないのだが,この日の演奏は随分ましだった。それでも聞きづらいのには変わりなく,頭の中で,響いているであろう音を補完しながら聞くしかなかった。

 1楽章が終わったところで,遅れてきた人を2階のバルコニーに入れたが,靴の音が響いて,上原はなかなか演奏を始められず,気の毒だった。だが演奏は極上で,特に昼間部でのピアノとオケのからみがよかった。

 3楽章のカデンツァは聞いたことのないもの。上原のオリジナルかどうかは,プログラムを見ても不明。よく演奏されるベートーヴェンのものは,音楽の流れが一旦断ち切られて好きではないので,こちらの方がいいと思った。

 有名曲すぎて最近はあまり聞いていなかったが,すごくいい曲だと改めて思わされた。

 終わった後,上原は観客よりも先にオケのメンバーにこれでもかとお礼のご挨拶。客としては微妙な感じがするのだが,それだけオケの出来に満足したのだろうと思う。

 

 20分の休憩の後のマーラーは,本当にもの凄い演奏だった。

 冒頭は,聞こえないようなピアニッシモでなく,しっかり聞こえるように弾かせていたのがインバルらしい。一筆書きのように,神経質にならないで進む。トランペットのファンファーレは舞台の袖で吹かせていて,主部に入ると奏者3人がステージに現れた。ところどころでインバルの歌う声が響く。元東ドイツのベルリン交響楽団ということで,技術的にはどうかなと心配したが,金管をはじめここぞというときはビシバシ決まり,不安定なところはなかった。都響とのCDに比べると,ホルンが強力で,ここぞというときはバシッと決めてくれて気持ちよかった。

 ステージに溢れんばかりの大編成だが,この日のコントラバスは6本。ティンパニなどはオルガンの下に入ってしまい,音響的にどうかと思ったが,うまくバランスを取って演奏していたように思う。

 あっという間に1楽章が終わり,都響とのCDのようにアタッカで2楽章に入るのかと思いきや,指揮台を降りて何か始めたので,何だろうと思ったら,オケのメンバーに手伝わせて指揮台を少し前に出した。この日は暗譜で,譜面台なし。

 2楽章はノリノリで,冒頭からインバルもオケもスイングしまくっていた。コントラバスとチェロがキッパリしてて最高。こんなに楽しいこの曲の演奏は聞いたことがない。

 ところがここで事件が!後ろの席のジジイが,2楽章が終わったところで隣のばあさんに喋りだし,3楽章が始まってもやめようとしないという,信じられないことが起きた。「金髪が何とか」とどうでもいいことを喋っていた。ばあさんが注意して喋るのはやめたが,最最最低限のマナーも分からないなら来るな!喋りだす前にも,何かをゴソゴソさせて音を出していた。そもそも,来たくて来たような感じではなく,誰かに券をもらったのでヒマだから来たというような感じに見えた。

 そんなイライラさせるような状況で3楽章は始まったが,ここでも,今まで聞いたことのないような素晴らしい演奏で,普通なら眠くなるのだが,全然眠くならないで最後まで聞けた。途中,曲想が変わるところでインバルは切り替わりがはっきり分かるよう演奏していて,この曲の分裂症的なところがはっきり分かった。

 4楽章も,冒頭からオケが乗りまくっていて,20分近くかかる長い楽章が,あっという間だった。弦楽器奏者の何人かが,弾き終わるたびに弓を高く上げる動作をして,楽しくてしょうがない様子がよく分かった。トゥッティのドカんというところが一々ビシッと決まるのも聞いていて気持ちよかった。コーダではホルン全員とトランペット1人が立ち上がって演奏し,最後の1撃はティンパニ入りで終わった。

 この日のコンマスは日下紗矢子さんで,見栄えがするだけでなく,ソロの演奏もとてもよかった。いつもこのホールでは聞こえなくてイライラするヴァイオリンのパートが,はじめてというくらいよく聞こえた(といっても,やはりもやもやするのだが)。尻上がりに聞こえがよくなったように思うので,インバルとオケのメンバーが演奏しながらよく聞こえるように修正していったのだろうか。

 こうして実演を聞くと,マーラーのいろいろな仕掛けがよく分かる。CDはもちろん,テレビ中継でも分からないことがたくさんあるんだと,今回初めて分かった気がする。

 とにかく,オケのメンバーが楽しそうに演奏しているのが印象的だった。終わった後もみな満足そうな表情。この演奏の後にアンコールはあり得ないなと思った。

 今までこのホールで聞いたオーケストラの演奏会の中では,間違いなくナンバーワンだった。

 

 会場では,オーケストラからのプレゼントということで,幾つかのグッズをプレゼントしていた。そのうち,ポストカードをもらってきた。

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 また,パンフレット(500円)と一緒に,会場限定(と思われる)CDも売っていた(2,000円)。

ブゾーニ:踊るワルツOp.53

R.シュトラウスアルプス交響曲Op.64

ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

指揮:エリアフ・インバル

①は2001年8月31日,②は2003年10月24日,どちらもベルリンのコンツェルトハウスでの演奏。①は自由ベルリン放送,②はベルリン・ブランデンブルク放送の音源。©2017年となっているので,今回のツアー向けに作られたつくられたものと思われ,日本語の解説がついているばかりか,ジャケット表紙に日本語で曲名が書いてあるというレアもの。

 残念なのは,アルプス交響曲が1トラックなこと。また,どうせならマーラーがよかった。

 演奏は,アルプス交響曲は演奏時間が約45分52秒(拍手なし)と速いテンポでぐいぐい進めていき,初めのうちは今ひとつオケが乗らない感じだが,徐々に乗ってきて,所々でインバルの濃い表現が聞かれる充実した演奏だった。

 ブゾーニは,初めて聞く珍しい曲なのでコメントできないが,最後は拍手入り。

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 今回のツアーでは,3月13日から22日にかけて,東京,高崎,福島,福井,横浜,大阪,名古屋,東京と回るようだが,どこかの演奏会をNHKで収録して放送してくれないだろうか。

 

 それと,1987年11月3日のフランクフルト放送交響楽団との来日公演をブルーレイで復刻してほしい。NHKが収録,放送したもので(確か,今はなき教育テレビとFMの同時放送だった),以前,DENONからLDが出ていたが,DVD化はされずにそのままになっている。LDでは前半の《ハフナー》交響曲はカットされていたが,あわせてブルーレイ化してほしい。もの凄い演奏なのだ(最後の方でティンパニが間違うというハプニングがあるが,逆にすごくハマっている)。

 

 

【追記】

 4月2日(日)夜9時からのEテレクラシック音楽館」で3月13日にすみだトリフォニーホールで行われた演奏会が放送されることが分かった。

 曲目は,ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》から前奏曲と愛の死,そしてマーラー交響曲第5番。楽しみだ。

 

 

森友学園との交渉記録は本当に廃棄されたのか?

 森友学園の問題で今一番気になるのは,財務省が交渉記録を1年の文書保存期限を経過したので廃棄したと言っていることだ。

 

 佐川理財局長が繰り返し答弁しているが,これが本当なら,財務省というのは相当デタラメな役所だということになる。感覚的に,とても本当のこととは思えない。

 そう思っていたところ,今日のNHKの「クローズアップ現代」で近畿財務局のOBが匿名で取材に応じ,おかしいと異議を唱えていた。通常は捨てたりしないと。もし文書は廃棄したとしても,交渉記録はパソコンで作成するので,そのデータがパソコンに残っているだろうと。ちゃんと探せば出てくるのではないかと。

 そのとおりだと思う。が,本当にデータまで消していたとすれば,逆に,おかしなことをやっていたことの間接的な証拠と言えるだろう。やばいから消したのだ。

 

 あくまで通常どおりの処理をして廃棄したというなら,やはり財務省はデタラメな役所だと批判を受けてもしょうがない。常識的にあり得ないからだ。財務省は,ということは,財務省の役人は,ということだ。

 そんなことはないと思う。だからOBも声を上げたのだと思う。財務省の職員は怒るべきだ。世間に対して自分たちがデタラメな連中だという印象を広めた佐川理財局長を怒るべきだ。

 佐川理財局長は,あの答弁で多くの財務省の職員を敵に回したのではないかと思う。自分(たち)の保身のために,多くの職員の誇りを大きく傷つけたのだ。既に,佐川局長(たち)のために,内部でトカゲの尻尾切りが行われているかもしれない。そう,このままだと,次はあなたかもしれないですぞ。

 財務省の真面目に仕事をしている優秀な職員の方々には,ぜひ声を上げてほしい。パソコンに残ってるだろうデータを引っ張り出して,世間に明らかにしてほしい。そして,佐川局長に汚された誇りを取り戻してほしい。それでこそ公務員でしょう。

 

 

オーケストラ・ランキング2017

 レコード芸術2017年3月号の特集は,「オーケストラ・ランキング2017」。「またか」と思ったら,2008年以来9年ぶりになるという。そう言われれば,2008年からは随分様子は変わっている。

 30人の評論家がそれぞれ1位から10位までランク付けし,点数化する。その結果は,

 1位 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 2位 バイエルン放送交響楽団

 3位 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 4位 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 5位 ドレスデン国立管弦楽団(シュターツカペレ)

 6位 パリ管弦楽団

 7位 シカゴ交響楽団

 8位 ロンドン交響楽団

 9位 マーラー室内管弦楽団

 10位 ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン

 以下略

となっている。

 

 1位のベルリン・フィルは文句なしと思う。30人中14人が1位にランク付けし,ランキングに入れていないのは2人だけ。

 2位と3位はやや以外。4位のウィーン・フィルは,これまでは1位か2位が定位置だったが,このところの凋落ぶりからするとこれでも高い順位になってると思う。1位に入れた人が6人もいる。

 あとはどこがどう入ってもそんなに変わりはないと思うが,かつて5位以内が定位置だったシカゴ交響楽団は7位に落ちた。

 今時だなと思うのは9位と10位。9位のマーラー室内管はまだわかるが,10位のドイツ・カンマー・フィルはどうかと思う。

 

【1位 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 ここだけは納得。どのオーケストラもレベルが上がったと言われるが,ベルリン・フィルほどの凄味が出せるオケはほかにはない。何だかんだ言って,凄い。

 レコーディング,映像配信,演奏会(旅行)などの活動ぶりをみても,ほかの一歩も二歩も先を行ってると思う。

 音は,カラヤン時代からは随分変わっているが,変わってないところもある。変わってないのはオーケストラとしての一体感のようなものか。それが凄味につながってると思う。

 日本人奏者が主要ポストをはじめ何人かいるのも魅力。コンサートマスターの樫本さんはすっかりオーケストラの顔になった。安永さんと違い(失礼!)イケメンなので,すごく見栄えもする。ぜひ長く続けてほしい。ヴィオラ首席の清水さんも美人なので見栄えは十分。

 ラトルの退任と後任の首席指揮者が既に決まっているが,キリル・ペトレンコは非常に期待できる。これまで接する機会は非常に少ないが,デジタル・コンサート・ホールでの演奏はどれも驚くほど素晴らしいものだった。特に変わった解釈などを聴かせる訳ではないのだが,とにかく凄い。本物感が半端でない。往年の指揮者と比べると,一番はカルロス・クライバーに似てる気がする。あるいは,若い頃のカラヤンがこんな感じだったのかなとも思う。就任まで間があるのが気になると言えば気になる。シャイで気難しいという噂もあるので,就任前に逃げ出さないことを祈る。

 

【2位 バイエルン放送交響楽団

 3位のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とともにヤンソンスがシェフを務めていたこともあって,最近はほとんどノーマークだった。元々レベルの高いオーケストラとは言われていたが,2位に入るほどのオケとは思っていなかった。評論家の6人が1位に入れている。

 はっきり言って,ヤンソンスは何がいいのか全くわからないので,最近のこの2つのオケはほとんど(録音でだが)聴いていなかった。これからいろいろ聴いてみたいと思う。

(追記)

 ヤンソンスとのマーラー交響曲第9番(2016年録音。BR KLASSIK)とハイティンクとのマーラー交響曲第3番(2016年録音。BR KLASSIK)を聴いた。

 どちらを聴いても,大したオーケストラとは思えなかった。2人とも「ぬるい」指揮者だが,それにしても,凄味は全くなく,音色的な特徴もなく,金管は雑で,やたらあっさりしており,名前を伏せて聴かされたらどこのオーケストラか全然分からないだろう。

 そういえば,2012年にヤンソンスと来日してサントリーホールベートーヴェン交響曲全曲を演奏し,NHKが放送したのだが,そのときにゲストでベルリン・フィルティンパニストのライナー・ゼーガースが参加していた。その際のインタビュー記事を読んだのだが,確か,このオケに比べるとベルリン・フィルは音を長くとる傾向があるといったことを言っていた。ヤンソンスの解釈というだけでなく,オケ自体にそういう傾向があるということなのだろう。なので,とてもあっさりに聴こえるのだろう。音を短めに取るだけでなく,金管などは音を早く減衰させる傾向もあると思う。これだとやはりマーラーなどでは物足りないだけになってしまう。

 もっとも,その時のベートーヴェンの演奏は,ただ楽譜を音にしましたという感じで,ヤンソンスの何の主張も感じられないぬるい指揮と相まって全然面白くない演奏だった(評論家には絶賛されていたようだが)。

 ということで,2位という順位には全く賛同できないし,よほど好きな指揮者が振った場合でもない限りは積極的に聴こうとは思わない。

 

 【3位 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 最近はRCOレーベルなどいろいろ頑張ってるのは分かるが,昔からどうも今ひとつよく分からないオーケストラだった。評論家で1位に入れた人が1人もいないというのが特徴的。そう,1位にはなれないオーケストラなのだ。

 シャイーの時代に音ががらっと変わり,カラフルで随分上手いオケになったとは思っていたが,ヤンソンス時代はほんとによく分からない。

 ヤンソンスは,オスロ・フィル時代はよかったが,病気をした後はほんとに何がいいのか全然分からないのだ。最近ベルリン・フィルに客演してやったショスタコーヴィチの10番なんて,縦の線がズレまくったり,ベルリン・フィルをこんなに下手くそにできる指揮者はめったにいないと思わせるできだったし。聴いていられなくて途中で止めたくらい。評論家受けは非常にいいようだが,ほんとに何がいいのだ?

 そんな指揮者が率いていたのでしばらくご無沙汰していたが,ガッティに変わったのでどうなるか。いろいろ言われているが,オケとしてはハイティンクの頃に戻るのではなく,シャイー路線で行くということなのか。ガッティはそれほど期待はできないと思っているが,予想は外れてほしいものだ。

 

 【4位 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 かつてはベルリン・フィルと1位,2位を争うのが常だったが,このところの凋落ぶりは目に余る。悲しい。クラシック音楽を聴き始めた頃,オーケストラと言えばウィーン・フィルだったのだ。文句なしに一番好きなオーケストラだった。

 この凋落の期間,長くコンサートマスターを務めたライナー・キュッヒルが退任したので,いい方向に向かうだろうか。カラヤンが死に,バーンスタインが死に,ヘッツェルが死に,アバドレヴァインを追い出し,キュッヒルの天下となり,そしてキュッヒルがこれでもかというほどの悪口を浴びせていたショルティが死に,いつの間にかウィーン・フィルはどうでもよいオーケストラになっていた。

 世間ではキュッヒルといえばウィーン・フィルの顔で,絶大な信頼を得ていたと思う。しかし,いつもあのブスっとした顔で弾いている様子を見ると,聴いていてとても楽しい気分にはなれない。今年のニューイヤー・コンサートの中継の中で,演奏中の表情についてコメントしていたと思うが,聴く方も一緒に演奏する仲間も,楽しくないのではないか。それで大コンサートマスターと言えるだろうか。先日,あるコンサートで,指揮者もオケもノリノリで実に楽しそうに演奏しており,聞いているこちらにもその気分が移ってしまうという素晴らしい体験をしたが,キュッヒルコンマスをやってる演奏会でこのような体験ができるとは思えない。

 キュッヒルというと,演奏中の様子のほか,友人である中野雄氏の本(『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』文春文庫,『指揮者の役割』新潮選書)の中で,読んでいて気分が悪くなるほど何人かの有名指揮者を罵倒していたのがとても印象に残っている。特にショルティに対しては酷い。しかし,ショルティとの演奏会や録音は素晴らしいものばかりだった。最近は《指環》を除いて忘れられた指揮者になりつつあるが。オーケストラからは嫌われていたのかもしれないが,ああいう指揮者とも一緒に仕事をしていたからこそ演奏レベルが保たれていたのではないか。自分たちに都合のいい指揮者ばかり呼ぶから,今のようになったのではないかと思う。

 そんなキュッヒルだが,それでも演奏が素晴らしいならいいが,はっきり言って全然上手いとは思わない。ここでも一つのエピソードを思い出す。1993年にカルロス・クライバーがライヴ録音したR.シュトラウスの《英雄の生涯》がお蔵入りになってしまった。NHK FMで放送され,以前は海賊版でも手に入った伝説的演奏だ。ソニーが録音していて,CDになるはずだった。お蔵入りになった理由は,ソロを弾いていたキュッヒルが自分の演奏を気に入らず,それでごたごたが起き,結局クライバーがリリースの許可を撤回したためだという。これが本当なら,キュッヒルの罪は余りにも重いと思う。この経過は,ややこしくて分かりづらいのだが,『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下』(アレクサンダー・ヴェルナー著,喜多尾道冬・広瀬大介訳 音楽之友社)320ページ以下に記載がある。その演奏を聴くと,確かに「英雄の妻」でのキュッヒルの独奏は,お世辞にも褒められたものではない。よほど体調が悪かったのか,と思ってしまうほどだ。

 そんなウィーン・フィルのCDは,ここ数年はニューイヤーとシェーンブルン宮殿でのライブだけという状況だった。シェーンブルンのライブなんて,CDでも映像付きでも,とても鑑賞に耐えるレベルではない。ただのつまらないお祭り。しかし,ここにきていくらか新譜が出るようになり,ドゥダメルとの《展覧会の絵》のようにライヴでないものも出るようになってきた。ネルソンスとのベートーヴェン交響曲全集の話もある。だが,なぜよりによってネルソンスなのか?ネルソンスのベートーヴェンなんて聴きたい人がいるのか?あの呆けたような表情,ヤンソンスのまねにしか見えない指揮姿,器用なんだとは思うが,さっぱりいいとは思わない若手の筆頭・・・。

 それでも今後のウィーン・フィルには期待したい。頑張ってほしい。

 

(追記)

 このところ,マーラー交響曲第3番ばかり聴いていて,ウィーン・フィルではブーレーズ盤(グラモフォン UCCG-90453~4)とアバド盤(グラモフォン UCCG-4474~5)を聴いた。

 後からアバド盤を聴いた(久しぶりに)が,ブーレーズ盤とは同じオーケストラとは思えないほど素晴らしかった。1980年の録音で,コンマスはヘッツェル。どこからも得も言われぬ香りが立ち上り,うっとりさせられる。弦も管も,音の一つ一つに表情を付けていて,ただ音を出しているのでないのがよく分かる。特に高音が何とも美しく,女性的と言いたくなる大人のだが,エッジが立っているので弱々しくはない。弦と管の絡みもうまくて,歌劇場のオーケストラだなと思わせる。それと,楽器間の音の受け渡しがスムーズで,「自分のパートは吹いた.後は勝手にどうぞ」ではなく,きちんと引継ぎがされているのがよく分かる。まさに一緒に音楽をしている感じがする。この点,バイエルン放送交響楽団(特に金管)とは全く違う。こういうのは指揮者の腕よりもやはりオーケストラの実力なのだと思う。

 しかし,ブーレーズ盤(2001年録音)では,以上のような特徴はほとんどなくなり,ほかの「普通の」オーケストラと変わりのないものになっていた。楽器や奏法に違いはあるのかもしれないが,それだけ。これだけ聴けば立派な演奏なのだが,指揮者でなくオケに注意して聴くと,かなり分が悪い。

 

(追記2)

 レヴァインとのことについて。

 中野雄氏の『指揮者の役割』70ページ以降に記載がある。

 すなわち,「1990年代の初め頃だったと思うが」「ウィーン・フィルの臨時公演を,改築直前の旧コンツェルトハウスで聴いた」「ジェームズ・レヴァインの指揮。ソリストにはアルフレート・ブレンデル」で「曲目がモーツァルトの《ハ短調・ピアノ協奏曲》とストラヴィンスキーバレエ音楽春の祭典》であった。」「結果は香しくなかった。『甚だ』と形容したいような出来で」「《春の祭典》はやはり『シカゴ響かクリーヴランド管で聴いた方が面白いかも』と思い通しのうちに終わってしまった。」「何日かのち,オーケストラ首脳部との会食の席で」「『申し訳ないけれど,この間のコンサートは感心しませんでした』と正直に感想を述べたら,間髪を入れずにその人は,『ご安心ください。もう招(よ)ばないことに決めましたから』と,私の眼を真っ直ぐに見詰めながら答えた。」とのこと。

 ということで,中野氏の本を読むと,この演奏会がきっかけで,その後レヴァインとは共演しなくなったかのように思える。確かに,1990年代半ば以降,共演していないように思っていた。

 しかし,中野氏の記述には記憶違いがあるようだ。

 まず,件の演奏会は,1990年代の初め頃ではなく,1989年6月12日のウィーン芸術週間でのもので,最初にモーツァルト交響曲第23番も演奏されている。

 そして,NHK FMエアチェックしたものを聴いた方の感想によると,いい演奏だったらしい。少なくとも,空中分解するような演奏ではなかったのだろう。

http://otsusan.cocolog-nifty.com/genki/2007/10/vpo_5a94.html

 しかも,レヴァインウィーン・フィルは,翌年のザルツブルク音楽祭(8月11日)でも《春の祭典》を演奏している。前半はブラームス交響曲第2番。こちらはNHK FMからエアチェックしたものがあったので聴いてみた。はっきり言ってイマイチ。第1部は,ウィーン・フィルの演奏技術を考慮してか,遅めのテンポで進むのだが,金管がメタメタ。第2部は前半がゆったり怪しげな雰囲気なのでウィーン・フィルにもマッチ。後半になると,だいぶ乗ってきた感じで,打楽器が盛大に炸裂してなかなかの演奏になってきたが,最後の方ではかなり危うい場面も。

 いずれにせよ,1989年の演奏会で愛想をつかしたのに,翌年にまた同じ曲で共演するというのは考えにくい。レコード会社との契約があったわけでもなさそうだ(ブラームスは1995年10月にムジークフェラインでライヴ録音しており,《春の祭典》は1992年にメトロポリタン管弦楽団と録音している)。

 そして,レヴァインとは,この後1995年までは共演していたことが確認できた。確認できた中で最後の演奏会は,東京での11月9日のもの。このときの日本ツアーでは,11月3日の京都での演奏会がNHKのBSでも放送されていた。

 ということで,中野氏の記述は時期的なものは怪しい。しかし,レヴァインと共演しなくなったのは確かなので,ウィーン・フィルの首脳部がああいった発言をしたことはおそらく本当なのだろう。

 で,何が言いたいかというと,レヴァインアバドショルティらと共演しなくなった辺りから,変わってきたのではないかということだ。そして,私見では,この3人との演奏は,1990年代半ばまでの共演者の中では,やはり抜群によかったと思う。

 それに対して,ず~っと共演しているメータとは,延々とだらしない演奏を垂れ流しているのだが,なぜ彼はそんなにオケから好かれるのだろう?

 

(追記3)

 アバドについては,やはり中野雄氏の『指揮者の役割』14ページに記述がある。

 「彼がウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任し,カラヤンの後継者としてベルリン・フィルの音楽監督兼常任指揮者に就任してからしばらく経った頃のことである。私はウィーン・フィルに4人いたコンサート・マスターのうちのひとりに,『そういえば最近,アバドさんがウィーン・フィルの定期公演に登場しませんね』と尋ねた。すると,軽い話題として何気なく訊いただけであったのに,その人は私にキッと目を向けて,『

ええ,あの方はベルリン・フィルの音楽監督になられてから偉くなってしまって,勉強しなくなりました。ですから,うちのオーケストラの定期公演にはお招(よ)びしないことにしたんです』と言い放った。厳しいものである。」と。

 アバドウィーン・フィルを指揮したのは,1997年11月10日である。ムジークフェラインでの楽友協会コンサートで,曲は,シューベルト交響曲第5番ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》から前奏曲と愛の死,R.シュトラウスの《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》であった。

 確かに,この頃は,ベルリン・フィルともうまくいかず,苦しい時期だったように思う。頭でっかちで,覇気のない演奏が続いていたように思う。いろんな凝った企画をぶち上げるが,音楽がついてきていなかった。ピリオド奏法の勉強もかなりしていた時期だと思う。アバドベルリン・フィルの演奏が変わったのは,胃がんの手術をする直前,1999年頃。その頃から,何か,一皮剥けて,独特の不思議な音色・音質のする演奏をするようになった。

 なので,誰かは知らないが(想像はつくが),コンサート・マスターの「あの方は…勉強しなくなりました」という言葉はそのままは信じがたい。ウィーン流の皮肉ではないのかと思う。すなわち,本当は,「勉強ばかりして音楽がつまらなくなった」と言いたかったのではないか。もし本当に言葉通りの発言だとしたら,「勉強しないのはあなたたちでは?」と嫌みを言いたくなる。

 今となっては,ベルリン・フィルルツェルン祝祭管のイメージが強いアバドだが,一番相性が良くていい演奏をしていたのはウィーン・フィルとだったと思っている。なので,復帰を期待していたのだが,それがかなわないまま亡くなってしまった。ウィーン・フィルとの業績が無視されてしまっている(ように思える)状況は,何とも残念だ。

 

【5位 ドレスデン国立管弦楽団(シュターツカペレ)】

 ティーレマンはちっともいいと思わないので,違う指揮者でもっと聴いてみたい。

 ブロムシュテットの頃のいわゆるざっくりした弦の音はやはり素敵だと思う。

 

【6位 パリ管弦楽団

 昔からどうもよく分からないオーケストラ。

 

【7位 シカゴ交響楽団

 ムーティになってもっとCDが出るかと思ったら,そうでもなかったので,今の様子はあまりよく分からない。でも,Youtubeに出ていた第九は案外よかった。

 やはりショルティの頃は凄かった。管楽器が注目されがちだが,弦も超強力だった。ただし,アメリカ風のティンパニの音だけは苦手。

 バレンボイムが引き継いで凋落していったわけだが,シカゴでは非常に好かれていたと聞く。パリ管もそうだったが,なぜかショルティからバレンボイムが引き継ぐというパターンがあった。そういえば,マゼールからヤンソンスというのもあった(ピッツバーグ交響楽団バイエルン放送交響楽団)。どちらの場合も,前任者と後任者で音楽性が全然違うのが面白いが,どちらもオケのレベルは落ちてしまった。

 

【8位 ロンドン交響楽団

 ラトルが首席指揮者になるようだが,誰がなってもあまり変わらないように思う。

 

【9位 マーラー室内管弦楽団

【10位 ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン

 こういうところを入れておかないと,という時代の流れなんでしょうな。

 

【番外編】

 以上10位までの中で,1位に入れた人がいるのは,コンセルトヘボウを除く5位までだった。しかし,下位のオーケストラで,1人だけが1位を入れたのが2つあった。どちらも,その票だけ(つまり,合計10点)というのが面白い。

 それは,矢澤孝樹氏が1位にしたウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(WCM)と,平林直哉氏が1位にしたチャイコフスキー交響楽団である。どちらも,ほかに票を入れた人はいない。

 WCMは,ほかの何人が票を入れない理由を書いているが,要は,アーノンクールが死んだ後どうなるか分からない(解散するかもしれない)からということと,そもそも,こういう特定の指揮者とのつながりでできあがってきているピリオド・オーケストラへの疑問からである。それなのにあえて1位に入れてきた矢澤氏は,確信犯だと思うのだが,本企画の趣旨からはやはり外れているんだと思う。矢澤氏は,2016年10月の特集「人生の50枚 私のリピート・ディスク・リスト」でも,一人,クラシック以外の音楽を多数入れ,その理由についてぐだぐだ屁理屈を書いていた。はっきり言って,企画の趣旨に賛成できないなら,断るべきだ。好きなことを勝手に書きたいならブログにでも書けばいい。吉田秀和先生のお気に入りだったからといって,いい気になっているのではないか。既にこの世界で飯を食ってる人間ではないというところにも原因はあると思う。それはそれで面白いことが書けるバックグラウンドになってるのだろうが,編集部も甘やかしすぎだ。残念ながら,矢澤氏の文章は既にかなりマンネリになりつつある。刺激的なことを書かないとというプレッシャーがあるのだろうか。その結果がこのとおりだ。

 平林氏は,奇をてらったつもりなのだろうが,完全に滑ったと思う。確かに,1974年から40年以上もフェドセーエフとやっているというのはすごい。オーマンディフィラデルフィア管弦楽団の記録を抜いたと思う。しかし,世界で一番のオーケストラかと言って,賛成する人はいないだろう。実際,ほかに1点でも票を入れた人はいない。

 

自主避難者との間の深い溝

 今日の読売新聞に,原発事故による福島県からの自主避難者の記事が結構大きく出ていた。

 福島県民以外の方にはぴんと来ないかもしれないが,自主避難者(特に県外)とそれ以外の方との間には,深い溝ができてしまっている。

 残念ながら,自主避難者以外の福島県民の多くは,自主避難者のことを快く思っていないようだ。

 自主避難者は避難元の自治体は自分たちを見捨てたと思っているのだと思うが,自主避難者以外の方は自主避難者は避難元の自治体を捨てたと思っている。

 既に,公の場で自主避難者について述べることは,タブー化している。私もそのタブーを破るつもりはない。破ったところで何にもならないから。

 

 こういう問題の場合,敵を作って攻撃する,というやり方は得策ではないように思う。一部に熱狂的なファン(支援者)は現れるかもしれないが,どちらかというと敵を増やすだけで,結局は得られるものが少ないと思う。

 自主避難者の方は,攻める(責める)相手を間違っていると思う。内堀知事に合わせろと,貴重なお金と時間を費やして福島県庁に集まったりしているようだが,内堀知事に会ったところで何も変わらない。自主避難者の支援を福島県がやっていたのは,そう決められたからであって,本来は国か東電がやるべきことだからだ。国から金がもらえない限り,内堀知事は何もできない。無い袖は振れないのである。

 大坂の陣を終わらせたいからといって,真田信繁に会わせろと言ってもしょうがないのと同じである。

 できるだけ自主避難者以外の方を敵に回さず,国・東電と闘うことにエネルギーを使った方がいいと思う。自分たちの行動に正当性があるというのなら,尚更である。被災者同士で足を引っ張り合っていても,本当の敵を喜ばせるだけだ。

 

 

紅白で見えた 星野源 裏声と歌唱力の限界

 2016年のNHK紅白歌合戦星野源が「恋」を歌った。

 はっきり言って,声が出ておらず,特に裏声の部分はプロとしては恥ずかしすぎるくらい酷いものだった。23日のミュージックステーションスーパーライブのときよりもさらに酷くなっていた。声が全然出ていなかった。いくら何でもあれはないだろう。夜遊びしすぎたのか。

 そもそも,なぜこの人はすぐ裏声を使うんだろう。シンガーソングライターなのだから,自分の声の音域に合わせて曲を作ればいいのに。

 もちろん,裏声が全部ダメというわけではなく,感情表現の一つとして効果的に使うのならば分かる。しかし,「恋」の場合は声が出ないからしょうがなくて裏声で歌っているのは聴けば明らかだ。それが,裏声ですらまともに声が出ないのでは,プロ失格である。聴衆を嘗めているぞ。

 歌手の杏沙子がYouTubeで「恋」をカバーしているが,音を下げて裏声は使わないで歌っている。これだと,気味の悪い歌がだいぶまともに聞こえる。おそらく,音を下げても,裏声を使う方がプロとして許せないことだったのだろう。

 男性歌手が常人離れした輝かしい高音を轟かせるのは,歌を聴く楽しみの一つである。それを裏声で誤魔化すのは,プロとしては情けないやり方だ。高い音が出ないなら,出ないなりに歌ってほしい。そうでなければ,これからでもボイストレーニングして地声で高音を轟かせてほしい。

 星野源には,ぜひ,裏声を使わず,音も下げずに「恋」を歌ってもらいたい。それで名誉挽回してほしい。

 いずれにせよ,あの不名誉な歌が未来永劫残ってしまうことにはなってしまった。ただの歌番組ならともかく,天下の紅白である。どこで映像が使い回されるか分からない。それとも,再放送されるときには,こっそりと音源を差し替えたりするのだろうか。

 

 

 まさかと思うかもしれないが,クラシック音楽の世界だが,そういうことがあった。

 ここから先は星野源とは全く関係がない。

 1988年の最後のカラヤンの来日公演。5月4日の東京文化会館での演奏。グラモフォンから正規盤としてCDも出ている。この日のメインプログラムであるムソルグスキーの《展覧会の絵》で,冒頭のトランペットが思いっきり音を外したのだ。

 この日はFMで生中継があったので,エアチェックしていたのだが,その後,再放送の際にはミスなしのものに差し替えられていた。生中継をエアチェックしたテープに録音し直してしまったので記憶の中でしかないのだが,強烈に覚えているので間違いない。

 その後,20年ほどしてCD化されたときも,ミスなしのものだった。

 カラヤンの指示なのか,ベルリン・フィルの指示なのか分からないが,そういうことはあるのだ。

 なお,今はYouTubeなどで生放送のときのミスありの音も聴けるようだ。悪いことはできないということだ。

 

 さらに,同じくベルリン・フィルの1981年の来日公演の際,ラヴェルボレロトロンボーンのソロがやはり思いっきり音を外したということで有名なのだが,そのことがNHKのBSで以前放送していた「名曲探偵アマデウス」で紹介されていた。この曲の一番の難所ということで,N響の方が冷や汗を流しながら実演してくれていて,非常に面白いのだが,ベルリン・フィルの話の部分が,しばらく後の再放送ではカットされていたのだ。

 ベルリン・フィルからクレームがついたのだろうか。

 たまたま修正前と後の両方を録画していたので,意図的にカットされているのが確認できた。

 世の中こういうことがあるので面白い。初回放送は大事に取っておいた方がよいということである。

 

 

 ということで,紅白での星野源の歌も,完璧な裏声に差し替えて放送される可能性がある。生放送を録画していた方は,大事に保存していた方がよいですぞ。完璧な地声に差し替えられたりしたら,最高に面白いのだが。

 

 

 それより,NHKにはぜひ「名曲探偵アマデウス」の再放送と続編をお願いしたい。

 

(追記)

 星野源の新曲「Family Song」が8月16日に発売された。

 裏声頼りが相変わらずだったのは非常に残念。それ以上に,この曲は割ときれいなメロディーをゆったりと歌う曲なため,声の魅力のなさが際立っている

 ジャケットやPVの「おげんさん」もキモい。「おげんさんといっしょ」では,藤井隆高畑充希に完全に負けていたし。

 音楽活動としてはプロデューサーとして活動した方がいいと思うが,自分で歌わずにはいられないんだろうな,この人。

 

 で,今日8月18日は,ミュージックステーションに出演してFamili Songを歌っていた。またまた音を外したりして,歌唱力のなさを露呈していた。裏声も,生だと余計に目立つ。

 

 

星野源の「恋」

 今日が最終回の火曜ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌,星野源の「恋」。

 聴けば聴くほど,その珍妙な歌詞に頭が変になりそうだ。

 

 「営みの街」。いきなり出だしに来る言葉にしては妙だ。何のことだか分からないし。

 それが「暮れたら色め」くんだそうだ。「色めく」とはまた古風な。

 風「たち」は「運ぶわ」といきなり女言葉。そうか,女性が語っているという設定の歌なのか。

 そして,その後に風「たち」が運ぶのは「カラス」と「人々」の「群れ」。「カラス」はないでしょ。品がない。なさすぎる。女性じゃなかったのか,これ歌ってるの。

 

 そう,「意味なんかない」のさ。

 腹を空かせて「君」の元に帰るのは,女?男じゃないのか?

 

 それにしても,「物心」ついてからずっと,この世にいる誰もが「2人から」だなんて,随分ませてましたな。物心って何歳からつくんだ?

 

 「指の交ざり」。聞いたことないな。星野語か。ここが一番気になって仕方ない。

 

 「白鳥」は何を運ぶのだろう。当たり前を変えながら。どうやって変えるの?なんて言うのは野暮でしょ。

 

 

 面倒くさくなったのでここまで。あとは,繋げると意味のない言葉の羅列だ。

 

 

 思うに,この人の歌の作り方って,曲とタイトルが先にあって,それから連想される言葉を音楽に合わせて並べてるんだと思う。いわゆる「曲先」というやつだ。

 だから,この人の歌で,単語が不自然に切れて気持ち悪いということはあまりない。その代わり,全体として歌詞を読むと,ストーリーがなく,ほとんど意味不明。そして,辞書でも引きながら書いてるのか,聞き慣れない単語が突如としてポロッと出てくる。

 韻を踏みたがるのも特徴だ。踏まずにはいられないらしい。韻を踏まないのは歌じゃないと思ってるんだろう。だからやっぱり意味不明の言葉が羅列されることになる。

 その代わり,歌詞の意味を考えないで聴いたり歌ったりすると,気持ちいいんだろうと思う。

 

 歌詞の話じゃないが,やたら裏声を使いたがるのも気になる。はっきり言って気持ち悪い。

 YouTubeで杏沙子さんが星野源の歌を何曲かカバーしてるが,裏声を出さないので聴いててすごく気持ちがいい。それまで気持ち悪いなと思ってた曲でも,「結構いいじゃん」て思った。

 ハイトーンが出ないのにコンプレックスを持ってるのだろうか。

 確かに,星野源の歌唱力ってどうなんだろうって思う。作詞作曲ができて,楽器もたくさん弾けて,オールマイティな印象があるが,歌唱力がウィークポイントかも。

 

 

 「恋」については,MIKIKO先生の不思議な振付にも言いたいことがたくさんあるが,それはまたいずれ。

 

星野源の英語

 星野源の歌に「Friend Ship」というのがある。「Friendship」ではない。

 つまり,「友の船」か。演歌みたいだな。だから「さま~!」,「さま~!」,「ママー~!」って叫ぶのか。

 いや,それなら「Friend's Ship」だろ。「Friendship」じゃないんだから。

 でも,「船」なんて歌詞に出て来ないぞ。

 いや,きっと「友が船に乗るさま」を歌ってるのさ。だから「船」自体は出て来ないのさ。

 

 

 「Week End」という歌もある。「Weekend」ではない。

 「週が終わる」。終わるとどうなるんだ?

 でもそれなら「A Week Ends」か「The Week Ends」じゃないか。

 いや,そんなの歌のタイトルにしたら格好悪いだろ。だから「Week End」なのさ。

 でもこっちには歌詞に「週末」って何回も出てくるけど。それでも「Weekend」じゃないからな。

 分かった。「週末の街角」のことを「Week End」と言うのさ。きっと,星野源くらいじゃないと買えない高価な辞書には書いてあるのさ。

 だって,「街角」って街の終わりのとこだから,「End」に「~末」と「街角」を掛けてるんだろ。

 

 

 誰か,教えてほしい。

 

 

レコード芸術2016年12月号

 今月号の特集は「交響曲名盤100 21世紀のスタンダード・コレクション」。またですか、こういうの。企画が枯渇したようにしか思えないが、新しく編集者になった方がやりたかったのかな。やはり王道ですから。でも何かひねりを入れないといけないと思ったのでしょう、①基本コレクション究極の名盤50、②交響曲の神々ベートーヴェンブルックナーマーラーの名盤20、③さらに広がる交響曲の世界(30枚)、の3部構成。
 ①と②は満津岡信育氏、佐伯茂樹氏、相場ひろ氏の3人による鼎談方式で、③はテーマ別に1人の選者が3枚ずつ選ぶ方式。
 これで「21世紀のスタンダード」ってい言われてもねぇ。一体どれだけの人がそう思うでしょうか。①②だってこの3人ですから、無理して「スタンダード」にこじつけてるけど、なかなか厳しい。③は完全に行っちゃってて、とても「スタンダード」とは言えないでしょう。
 一番の収穫は、佐伯氏と相場氏の写真が見られたこと。今まで見たことなかったと思う。2人とも、いかにも「悪いオヤジ」の風貌で、とてもいい感じ。おふたりとも、満津岡化(というか諸石化)しないでほしい。

 その諸石氏は、今月号でもご療養とのことで交響曲の月評は一部のみ。どうぞ、無理をなさらないで、ゆっくりお休みください。誰も期待してませんから。

 特別企画は「追悼 ネヴィル・マリナー」。急な訃報でしたが、穏やかな最期だったそうです。92歳だったんですね。随分お世話になりました。クラシック音楽を聴くようになるきっかけはマリナーの演奏でしたから。ご冥福をお祈りします。
 思いでの1枚ということで15名の方の「いちばんよく聴いたディスク」が挙げられてますが、さすが、どれもひねりの効いたものばかり。確かに、珍しい曲もたくさん録音してましたが、もっとスタンダードなレパートリーでの功績も紹介してほしかった。これは企画ミスでしょう。
 私はやはりマリナーといえばモーツァルト。特に映画「アマデウス」のサントラとブレンデルとのピアノ協奏曲全集は宝物です。ほかにお勧めしておきたいのは、パッヘルベルのカノン。1973年録音のEMI盤(現ワーナー)と1984年録音のフィリップス盤(現デッカ)があるが、どちらも通奏低音にオルガンを使っているのが珍しい。これを聴いた後だと、チェンバロでジャラジャラやるのは品がないように思ってしまう(ゲーベルのだけは別)。73年盤がゆっくりしたテンポなのに対し、84年盤は割と早めにすっきりと演奏しているので、どちらもあった方が楽しめる。しかも、84年盤は、ジーグのあともう1度カノンを演奏するというサービスぶり。録音は、当然フィリップスの方が断然よい。

 あと面白かったのは、「レコ芸相談室」。ピリオド楽器の演奏についての質問で、①メッサ・ディ・ヴォーチェと②汚い音を出して強調する演奏について。回答者は谷戸基岩氏。
 メッサ・ディ・ヴォーチェというのは、古楽演奏で「語尾をフッと抜く」(本号28ページの佐伯氏の表現)のことだが、質問者はその奏法についてご存じなく、そういう弾き方の正当性について質問されたよう。しかし、谷戸氏の回答は、「メッサ・ディ・ヴォーチェ」という名前と、声楽の歌唱技法から来ていることと、奏者によって演奏の仕方は様々だということだけ。特に最期のところに回答のほとんどを費やしており、これでは回答になってないのでは。名前は教えたらあとは勝手に調べろということか。
 後の質問については、無理に好きになることはない、と全然回答になっていない回答。言葉遣いは一応丁寧だが、説教じみていて完全に上から目線。質問に対する回答なんだからそうなちゃうのかもしれませんが、バカにされたようで、質問者はさぞ不愉快でしょうな。
 谷戸氏というと、2016年6月号のレコ芸相談室で信時潔カンタータ「海道東征」に関する質問に対する回答について、7月号で俵孝太郎氏からひどいクレームをつけられていた人だ。まあ、私はこの論争についてはよく分からないのだが。

  要は、聞かれてもいないことをベラベラと書き連ねるのが問題なのだ。編集部は、的確な回答になっているかどうか、中身をチェックしないのだろうか。