原発事故の前橋地裁判決は本当に一部「勝訴」なのか

 3月17日に,福島県から群馬県に避難した45世帯137人が東京電力と国に慰謝料などの損害賠償総額約15億円を求めた訴訟の判決があった。

 大方の新聞は,東電と国の「過失」を認め,損害賠償責任を認めた画期的な判決であると評価しているが,果たしてそうだろうか。

 東電の責任は,「原子力損害の賠償に関する法律」で無過失責任とされており,過失の有無は損害賠償責任の有無自体には関係がない。国の責任も,東電が無資力ならともかく,資力がある以上,賠償金をもらえるかどうかには直接関係がない。

 

 住民からすれば,幾らもらえるかが問題なのであって,原告団の弁護士や代表が言うような「東電と国の過失の有無」はどうでもよいのである。

 

 そういう意味からして,今回の判決が勝訴とは到底言い難いと思う。

 原告のうち,請求が一部でも認められたのは62人に過ぎず,賠償金の額も3855万円に過ぎない。

 1人当たりにすると,7万~350万円でしかないという。この中には,避難地域の方も自主避難者の方も入っており,総じて自主避難者は金額が低いようだ。これでは,別に東電と国の過失などには関係なく,事情を丁寧に主張・立証すれば,個別にADRで戦っても認められた金額ではないのかと思う。

 

 このように,実際には勝ったとは到底言えない判決内容で,勝った勝ったと書き立てるマスコミに気持ち悪さを感じる。

 「お金が欲しいんだ(必要なんだ)」という生々しいところにあえて蓋をして,金額でなく国の責任を問題にしているんだという高邁な主張をしているかのように書くマスコミは,何を意図しているのだろう。

 こんなことでは,避難住民が本当に救われることはないと思う。

 この判決で,国の避難者支援の政策が充実するとは思えないからである。

 

 

インバル指揮 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団演奏会

2017年3月15日(水)

福島市音楽堂

開場:18時

開演:18時30分

曲目:

 ①モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

 ②マーラー交響曲第1番ニ長調《巨人》

 (アンコールなし)

演奏者:

 上原彩子(ピアノ)

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

 指揮:エリアフ・インバル

 

 マーラーといえばインバル。インバルといえばマーラー。そのインバルが来てくれるとは!!!見た瞬間,背筋がゾクゾクした。そういえば,現役の指揮者で一番好きな指揮者って,インバルかも,って思った。

 オケは,旧東ドイツ(東ベルリン)のベルリン交響楽団が2006年に改称したもの。インバルは2001年から2006年まで首席指揮者を務めていた。ピアノは2002年の第12回チャイコフスキー国際ピアノコンクールで1位を取った上原彩子

 

 ステージに現れたインバルは意外と小柄だな,と思ったら,上原彩子はもっと小柄だった。スカイブルーの素敵なドレスを着て,颯爽と現れる。

 オケは今時にしては大きめの編成。コントラバス4本。こうでなくては,見栄えがしない。演奏が始まると,インバルらしく,ピリオドスタイルなど全く関係なしの演奏。上原のスタイルにもマッチする。

 このホールは残響がありすぎるせいか,ピアノは細かい音が聞こえず,オケは特にヴァイオリンの音が聞こえないのだが,この日の演奏は随分ましだった。それでも聞きづらいのには変わりなく,頭の中で,響いているであろう音を補完しながら聞くしかなかった。

 1楽章が終わったところで,遅れてきた人を2階のバルコニーに入れたが,靴の音が響いて,上原はなかなか演奏を始められず,気の毒だった。だが演奏は極上で,特に昼間部でのピアノとオケのからみがよかった。

 3楽章のカデンツァは聞いたことのないもの。上原のオリジナルかどうかは,プログラムを見ても不明。よく演奏されるベートーヴェンのものは,音楽の流れが一旦断ち切られて好きではないので,こちらの方がいいと思った。

 有名曲すぎて最近はあまり聞いていなかったが,すごくいい曲だと改めて思わされた。

 終わった後,上原は観客よりも先にオケのメンバーにこれでもかとお礼のご挨拶。客としては微妙な感じがするのだが,それだけオケの出来に満足したのだろうと思う。

 

 20分の休憩の後のマーラーは,本当にもの凄い演奏だった。

 冒頭は,聞こえないようなピアニッシモでなく,しっかり聞こえるように弾かせていたのがインバルらしい。一筆書きのように,神経質にならないで進む。トランペットのファンファーレは舞台の袖で吹かせていて,主部に入ると奏者3人がステージに現れた。ところどころでインバルの歌う声が響く。元東ドイツのベルリン交響楽団ということで,技術的にはどうかなと心配したが,金管をはじめここぞというときはビシバシ決まり,不安定なところはなかった。都響とのCDに比べると,ホルンが強力で,ここぞというときはバシッと決めてくれて気持ちよかった。

 ステージに溢れんばかりの大編成だが,この日のコントラバスは6本。ティンパニなどはオルガンの下に入ってしまい,音響的にどうかと思ったが,うまくバランスを取って演奏していたように思う。

 あっという間に1楽章が終わり,都響とのCDのようにアタッカで2楽章に入るのかと思いきや,指揮台を降りて何か始めたので,何だろうと思ったら,オケのメンバーに手伝わせて指揮台を少し前に出した。この日は暗譜で,譜面台なし。

 2楽章はノリノリで,冒頭からインバルもオケもスイングしまくっていた。コントラバスとチェロがキッパリしてて最高。こんなに楽しいこの曲の演奏は聞いたことがない。

 ところがここで事件が!後ろの席のジジイが,2楽章が終わったところで隣のばあさんに喋りだし,3楽章が始まってもやめようとしないという,信じられないことが起きた。「金髪が何とか」とどうでもいいことを喋っていた。ばあさんが注意して喋るのはやめたが,最最最低限のマナーも分からないなら来るな!喋りだす前にも,何かをゴソゴソさせて音を出していた。そもそも,来たくて来たような感じではなく,誰かに券をもらったのでヒマだから来たというような感じに見えた。

 そんなイライラさせるような状況で3楽章は始まったが,ここでも,今まで聞いたことのないような素晴らしい演奏で,普通なら眠くなるのだが,全然眠くならないで最後まで聞けた。途中,曲想が変わるところでインバルは切り替わりがはっきり分かるよう演奏していて,この曲の分裂症的なところがはっきり分かった。

 4楽章も,冒頭からオケが乗りまくっていて,20分近くかかる長い楽章が,あっという間だった。弦楽器奏者の何人かが,弾き終わるたびに弓を高く上げる動作をして,楽しくてしょうがない様子がよく分かった。トゥッティのドカんというところが一々ビシッと決まるのも聞いていて気持ちよかった。コーダではホルン全員とトランペット1人が立ち上がって演奏し,最後の1撃はティンパニ入りで終わった。

 この日のコンマスは日下紗矢子さんで,見栄えがするだけでなく,ソロの演奏もとてもよかった。いつもこのホールでは聞こえなくてイライラするヴァイオリンのパートが,はじめてというくらいよく聞こえた(といっても,やはりもやもやするのだが)。尻上がりに聞こえがよくなったように思うので,インバルとオケのメンバーが演奏しながらよく聞こえるように修正していったのだろうか。

 こうして実演を聞くと,マーラーのいろいろな仕掛けがよく分かる。CDはもちろん,テレビ中継でも分からないことがたくさんあるんだと,今回初めて分かった気がする。

 とにかく,オケのメンバーが楽しそうに演奏しているのが印象的だった。終わった後もみな満足そうな表情。この演奏の後にアンコールはあり得ないなと思った。

 今までこのホールで聞いたオーケストラの演奏会の中では,間違いなくナンバーワンだった。

 

 会場では,オーケストラからのプレゼントということで,幾つかのグッズをプレゼントしていた。そのうち,ポストカードをもらってきた。

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 また,パンフレット(500円)と一緒に,会場限定(と思われる)CDも売っていた(2,000円)。

ブゾーニ:踊るワルツOp.53

R.シュトラウスアルプス交響曲Op.64

ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

指揮:エリアフ・インバル

①は2001年8月31日,②は2003年10月24日,どちらもベルリンのコンツェルトハウスでの演奏。①は自由ベルリン放送,②はベルリン・ブランデンブルク放送の音源。©2017年となっているので,今回のツアー向けに作られたつくられたものと思われ,日本語の解説がついているばかりか,ジャケット表紙に日本語で曲名が書いてあるというレアもの。

 残念なのは,アルプス交響曲が1トラックなこと。また,どうせならマーラーがよかった。

 演奏は,アルプス交響曲は演奏時間が約45分52秒(拍手なし)と速いテンポでぐいぐい進めていき,初めのうちは今ひとつオケが乗らない感じだが,徐々に乗ってきて,所々でインバルの濃い表現が聞かれる充実した演奏だった。

 ブゾーニは,初めて聞く珍しい曲なのでコメントできないが,最後は拍手入り。

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 今回のツアーでは,3月13日から22日にかけて,東京,高崎,福島,福井,横浜,大阪,名古屋,東京と回るようだが,どこかの演奏会をNHKで収録して放送してくれないだろうか。

 

 それと,1987年11月3日のフランクフルト放送交響楽団との来日公演をブルーレイで復刻してほしい。NHKが収録,放送したもので(確か,今はなき教育テレビとFMの同時放送だった),以前,DENONからLDが出ていたが,DVD化はされずにそのままになっている。LDでは前半の《ハフナー》交響曲はカットされていたが,あわせてブルーレイ化してほしい。もの凄い演奏なのだ(最後の方でティンパニが間違うというハプニングがあるが,逆にすごくハマっている)。

 

 

【追記】

 4月2日(日)夜9時からのEテレクラシック音楽館」で3月13日にすみだトリフォニーホールで行われた演奏会が放送されることが分かった。

 曲目は,ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》から前奏曲と愛の死,そしてマーラー交響曲第5番。楽しみだ。

 

 

森友学園との交渉記録は本当に廃棄されたのか?

 森友学園の問題で今一番気になるのは,財務省が交渉記録を1年の文書保存期限を経過したので廃棄したと言っていることだ。

 

 佐川理財局長が繰り返し答弁しているが,これが本当なら,財務省というのは相当デタラメな役所だということになる。感覚的に,とても本当のこととは思えない。

 そう思っていたところ,今日のNHKの「クローズアップ現代」で近畿財務局のOBが匿名で取材に応じ,おかしいと異議を唱えていた。通常は捨てたりしないと。もし文書は廃棄したとしても,交渉記録はパソコンで作成するので,そのデータがパソコンに残っているだろうと。ちゃんと探せば出てくるのではないかと。

 そのとおりだと思う。が,本当にデータまで消していたとすれば,逆に,おかしなことをやっていたことの間接的な証拠と言えるだろう。やばいから消したのだ。

 

 あくまで通常どおりの処理をして廃棄したというなら,やはり財務省はデタラメな役所だと批判を受けてもしょうがない。常識的にあり得ないからだ。財務省は,ということは,財務省の役人は,ということだ。

 そんなことはないと思う。だからOBも声を上げたのだと思う。財務省の職員は怒るべきだ。世間に対して自分たちがデタラメな連中だという印象を広めた佐川理財局長を怒るべきだ。

 佐川理財局長は,あの答弁で多くの財務省の職員を敵に回したのではないかと思う。自分(たち)の保身のために,多くの職員の誇りを大きく傷つけたのだ。既に,佐川局長(たち)のために,内部でトカゲの尻尾切りが行われているかもしれない。そう,このままだと,次はあなたかもしれないですぞ。

 財務省の真面目に仕事をしている優秀な職員の方々には,ぜひ声を上げてほしい。パソコンに残ってるだろうデータを引っ張り出して,世間に明らかにしてほしい。そして,佐川局長に汚された誇りを取り戻してほしい。それでこそ公務員でしょう。

 

 

オーケストラ・ランキング2017

 レコード芸術2017年3月号の特集は,「オーケストラ・ランキング2017」。「またか」と思ったら,2008年以来9年ぶりになるという。そう言われれば,2008年からは随分様子は変わっている。

 30人の評論家がそれぞれ1位から10位までランク付けし,点数化する。その結果は,

 1位 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 2位 バイエルン放送交響楽団

 3位 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 4位 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 5位 ドレスデン国立管弦楽団(シュターツカペレ)

 6位 パリ管弦楽団

 7位 シカゴ交響楽団

 8位 ロンドン交響楽団

 9位 マーラー室内管弦楽団

 10位 ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン

 以下略

となっている。

 

 1位のベルリン・フィルは文句なしと思う。30人中14人が1位にランク付けし,ランキングに入れていないのは2人だけ。

 2位と3位はやや以外。4位のウィーン・フィルは,これまでは1位か2位が定位置だったが,このところの凋落ぶりからするとこれでも高い順位になってると思う。1位に入れた人が6人もいる。

 あとはどこがどう入ってもそんなに変わりはないと思うが,かつて5位以内が定位置だったシカゴ交響楽団は7位に落ちた。

 今時だなと思うのは9位と10位。9位のマーラー室内管はまだわかるが,10位のドイツ・カンマー・フィルはどうかと思う。

 

【1位 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 ここだけは納得。どのオーケストラもレベルが上がったと言われるが,ベルリン・フィルほどの凄味が出せるオケはほかにはない。何だかんだ言って,凄い。

 レコーディング,映像配信,演奏会(旅行)などの活動ぶりをみても,ほかの一歩も二歩も先を行ってると思う。

 音は,カラヤン時代からは随分変わっているが,変わってないところもある。変わってないのはオーケストラとしての一体感のようなものか。それが凄味につながってると思う。

 日本人奏者が主要ポストをはじめ何人かいるのも魅力。コンサートマスターの樫本さんはすっかりオーケストラの顔になった。安永さんと違い(失礼!)イケメンなので,すごく見栄えもする。ぜひ長く続けてほしい。ヴィオラ首席の清水さんも美人なので見栄えは十分。

 ラトルの退任と後任の首席指揮者が既に決まっているが,キリル・ペトレンコは非常に期待できる。これまで接する機会は非常に少ないが,デジタル・コンサート・ホールでの演奏はどれも驚くほど素晴らしいものだった。特に変わった解釈などを聴かせる訳ではないのだが,とにかく凄い。本物感が半端でない。往年の指揮者と比べると,一番はカルロス・クライバーに似てる気がする。あるいは,若い頃のカラヤンがこんな感じだったのかなとも思う。就任まで間があるのが気になると言えば気になる。シャイで気難しいという噂もあるので,就任前に逃げ出さないことを祈る。

 

【2位 バイエルン放送交響楽団

 3位のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とともにヤンソンスがシェフを務めていたこともあって,最近はほとんどノーマークだった。元々レベルの高いオーケストラとは言われていたが,2位に入るほどのオケとは思っていなかった。評論家の6人が1位に入れている。

 はっきり言って,ヤンソンスは何がいいのか全くわからないので,最近のこの2つのオケはほとんど(録音でだが)聴いていなかった。これからいろいろ聴いてみたいと思う。

(追記)

 ヤンソンスとのマーラー交響曲第9番(2016年録音。BR KLASSIK)とハイティンクとのマーラー交響曲第3番(2016年録音。BR KLASSIK)を聴いた。

 どちらを聴いても,大したオーケストラとは思えなかった。2人とも「ぬるい」指揮者だが,それにしても,凄味は全くなく,音色的な特徴もなく,金管は雑で,やたらあっさりしており,名前を伏せて聴かされたらどこのオーケストラか全然分からないだろう。

 そういえば,2012年にヤンソンスと来日してサントリーホールベートーヴェン交響曲全曲を演奏し,NHKが放送したのだが,そのときにゲストでベルリン・フィルティンパニストのライナー・ゼーガースが参加していた。その際のインタビュー記事を読んだのだが,確か,このオケに比べるとベルリン・フィルは音を長くとる傾向があるといったことを言っていた。ヤンソンスの解釈というだけでなく,オケ自体にそういう傾向があるということなのだろう。なので,とてもあっさりに聴こえるのだろう。音を短めに取るだけでなく,金管などは音を早く減衰させる傾向もあると思う。これだとやはりマーラーなどでは物足りないだけになってしまう。

 もっとも,その時のベートーヴェンの演奏は,ただ楽譜を音にしましたという感じで,ヤンソンスの何の主張も感じられないぬるい指揮と相まって全然面白くない演奏だった(評論家には絶賛されていたようだが)。

 ということで,2位という順位には全く賛同できないし,よほど好きな指揮者が振った場合でもない限りは積極的に聴こうとは思わない。

 

 【3位 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 最近はRCOレーベルなどいろいろ頑張ってるのは分かるが,昔からどうも今ひとつよく分からないオーケストラだった。評論家で1位に入れた人が1人もいないというのが特徴的。そう,1位にはなれないオーケストラなのだ。

 シャイーの時代に音ががらっと変わり,カラフルで随分上手いオケになったとは思っていたが,ヤンソンス時代はほんとによく分からない。

 ヤンソンスは,オスロ・フィル時代はよかったが,病気をした後はほんとに何がいいのか全然分からないのだ。最近ベルリン・フィルに客演してやったショスタコーヴィチの10番なんて,縦の線がズレまくったり,ベルリン・フィルをこんなに下手くそにできる指揮者はめったにいないと思わせるできだったし。聴いていられなくて途中で止めたくらい。評論家受けは非常にいいようだが,ほんとに何がいいのだ?

 そんな指揮者が率いていたのでしばらくご無沙汰していたが,ガッティに変わったのでどうなるか。いろいろ言われているが,オケとしてはハイティンクの頃に戻るのではなく,シャイー路線で行くということなのか。ガッティはそれほど期待はできないと思っているが,予想は外れてほしいものだ。

 

 【4位 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 かつてはベルリン・フィルと1位,2位を争うのが常だったが,このところの凋落ぶりは目に余る。悲しい。クラシック音楽を聴き始めた頃,オーケストラと言えばウィーン・フィルだったのだ。文句なしに一番好きなオーケストラだった。

 この凋落の期間,長くコンサートマスターを務めたライナー・キュッヒルが退任したので,いい方向に向かうだろうか。カラヤンが死に,バーンスタインが死に,ヘッツェルが死に,アバドレヴァインを追い出し,キュッヒルの天下となり,そしてキュッヒルがこれでもかというほどの悪口を浴びせていたショルティが死に,いつの間にかウィーン・フィルはどうでもよいオーケストラになっていた。

 世間ではキュッヒルといえばウィーン・フィルの顔で,絶大な信頼を得ていたと思う。しかし,いつもあのブスっとした顔で弾いている様子を見ると,聴いていてとても楽しい気分にはなれない。今年のニューイヤー・コンサートの中継の中で,演奏中の表情についてコメントしていたと思うが,聴く方も一緒に演奏する仲間も,楽しくないのではないか。それで大コンサートマスターと言えるだろうか。先日,あるコンサートで,指揮者もオケもノリノリで実に楽しそうに演奏しており,聞いているこちらにもその気分が移ってしまうという素晴らしい体験をしたが,キュッヒルコンマスをやってる演奏会でこのような体験ができるとは思えない。

 キュッヒルというと,演奏中の様子のほか,友人である中野雄氏の本(『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』文春文庫,『指揮者の役割』新潮選書)の中で,読んでいて気分が悪くなるほど何人かの有名指揮者を罵倒していたのがとても印象に残っている。特にショルティに対しては酷い。しかし,ショルティとの演奏会や録音は素晴らしいものばかりだった。最近は《指環》を除いて忘れられた指揮者になりつつあるが。オーケストラからは嫌われていたのかもしれないが,ああいう指揮者とも一緒に仕事をしていたからこそ演奏レベルが保たれていたのではないか。自分たちに都合のいい指揮者ばかり呼ぶから,今のようになったのではないかと思う。

 そんなキュッヒルだが,それでも演奏が素晴らしいならいいが,はっきり言って全然上手いとは思わない。ここでも一つのエピソードを思い出す。1993年にカルロス・クライバーがライヴ録音したR.シュトラウスの《英雄の生涯》がお蔵入りになってしまった。NHK FMで放送され,以前は海賊版でも手に入った伝説的演奏だ。ソニーが録音していて,CDになるはずだった。お蔵入りになった理由は,ソロを弾いていたキュッヒルが自分の演奏を気に入らず,それでごたごたが起き,結局クライバーがリリースの許可を撤回したためだという。これが本当なら,キュッヒルの罪は余りにも重いと思う。この経過は,ややこしくて分かりづらいのだが,『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下』(アレクサンダー・ヴェルナー著,喜多尾道冬・広瀬大介訳 音楽之友社)320ページ以下に記載がある。その演奏を聴くと,確かに「英雄の妻」でのキュッヒルの独奏は,お世辞にも褒められたものではない。よほど体調が悪かったのか,と思ってしまうほどだ。

 そんなウィーン・フィルのCDは,ここ数年はニューイヤーとシェーンブルン宮殿でのライブだけという状況だった。シェーンブルンのライブなんて,CDでも映像付きでも,とても鑑賞に耐えるレベルではない。ただのつまらないお祭り。しかし,ここにきていくらか新譜が出るようになり,ドゥダメルとの《展覧会の絵》のようにライヴでないものも出るようになってきた。ネルソンスとのベートーヴェン交響曲全集の話もある。だが,なぜよりによってネルソンスなのか?ネルソンスのベートーヴェンなんて聴きたい人がいるのか?あの呆けたような表情,ヤンソンスのまねにしか見えない指揮姿,器用なんだとは思うが,さっぱりいいとは思わない若手の筆頭・・・。

 それでも今後のウィーン・フィルには期待したい。頑張ってほしい。

 

(追記)

 このところ,マーラー交響曲第3番ばかり聴いていて,ウィーン・フィルではブーレーズ盤(グラモフォン UCCG-90453~4)とアバド盤(グラモフォン UCCG-4474~5)を聴いた。

 後からアバド盤を聴いた(久しぶりに)が,ブーレーズ盤とは同じオーケストラとは思えないほど素晴らしかった。1980年の録音で,コンマスはヘッツェル。どこからも得も言われぬ香りが立ち上り,うっとりさせられる。弦も管も,音の一つ一つに表情を付けていて,ただ音を出しているのでないのがよく分かる。特に高音が何とも美しく,女性的と言いたくなる大人のだが,エッジが立っているので弱々しくはない。弦と管の絡みもうまくて,歌劇場のオーケストラだなと思わせる。それと,楽器間の音の受け渡しがスムーズで,「自分のパートは吹いた.後は勝手にどうぞ」ではなく,きちんと引継ぎがされているのがよく分かる。まさに一緒に音楽をしている感じがする。この点,バイエルン放送交響楽団(特に金管)とは全く違う。こういうのは指揮者の腕よりもやはりオーケストラの実力なのだと思う。

 しかし,ブーレーズ盤(2001年録音)では,以上のような特徴はほとんどなくなり,ほかの「普通の」オーケストラと変わりのないものになっていた。楽器や奏法に違いはあるのかもしれないが,それだけ。これだけ聴けば立派な演奏なのだが,指揮者でなくオケに注意して聴くと,かなり分が悪い。

 

(追記2)

 レヴァインとのことについて。

 中野雄氏の『指揮者の役割』70ページ以降に記載がある。

 すなわち,「1990年代の初め頃だったと思うが」「ウィーン・フィルの臨時公演を,改築直前の旧コンツェルトハウスで聴いた」「ジェームズ・レヴァインの指揮。ソリストにはアルフレート・ブレンデル」で「曲目がモーツァルトの《ハ短調・ピアノ協奏曲》とストラヴィンスキーバレエ音楽春の祭典》であった。」「結果は香しくなかった。『甚だ』と形容したいような出来で」「《春の祭典》はやはり『シカゴ響かクリーヴランド管で聴いた方が面白いかも』と思い通しのうちに終わってしまった。」「何日かのち,オーケストラ首脳部との会食の席で」「『申し訳ないけれど,この間のコンサートは感心しませんでした』と正直に感想を述べたら,間髪を入れずにその人は,『ご安心ください。もう招(よ)ばないことに決めましたから』と,私の眼を真っ直ぐに見詰めながら答えた。」とのこと。

 ということで,中野氏の本を読むと,この演奏会がきっかけで,その後レヴァインとは共演しなくなったかのように思える。確かに,1990年代半ば以降,共演していないように思っていた。

 しかし,中野氏の記述には記憶違いがあるようだ。

 まず,件の演奏会は,1990年代の初め頃ではなく,1989年6月12日のウィーン芸術週間でのもので,最初にモーツァルト交響曲第23番も演奏されている。

 そして,NHK FMエアチェックしたものを聴いた方の感想によると,いい演奏だったらしい。少なくとも,空中分解するような演奏ではなかったのだろう。

http://otsusan.cocolog-nifty.com/genki/2007/10/vpo_5a94.html

 しかも,レヴァインウィーン・フィルは,翌年のザルツブルク音楽祭(8月11日)でも《春の祭典》を演奏している。前半はブラームス交響曲第2番。こちらはNHK FMからエアチェックしたものがあったので聴いてみた。はっきり言ってイマイチ。第1部は,ウィーン・フィルの演奏技術を考慮してか,遅めのテンポで進むのだが,金管がメタメタ。第2部は前半がゆったり怪しげな雰囲気なのでウィーン・フィルにもマッチ。後半になると,だいぶ乗ってきた感じで,打楽器が盛大に炸裂してなかなかの演奏になってきたが,最後の方ではかなり危うい場面も。

 いずれにせよ,1989年の演奏会で愛想をつかしたのに,翌年にまた同じ曲で共演するというのは考えにくい。レコード会社との契約があったわけでもなさそうだ(ブラームスは1995年10月にムジークフェラインでライヴ録音しており,《春の祭典》は1992年にメトロポリタン管弦楽団と録音している)。

 そして,レヴァインとは,この後1995年までは共演していたことが確認できた。確認できた中で最後の演奏会は,東京での11月9日のもの。このときの日本ツアーでは,11月3日の京都での演奏会がNHKのBSでも放送されていた。

 ということで,中野氏の記述は時期的なものは怪しい。しかし,レヴァインと共演しなくなったのは確かなので,ウィーン・フィルの首脳部がああいった発言をしたことはおそらく本当なのだろう。

 で,何が言いたいかというと,レヴァインアバドショルティらと共演しなくなった辺りから,変わってきたのではないかということだ。そして,私見では,この3人との演奏は,1990年代半ばまでの共演者の中では,やはり抜群によかったと思う。

 それに対して,ず~っと共演しているメータとは,延々とだらしない演奏を垂れ流しているのだが,なぜ彼はそんなにオケから好かれるのだろう?

 

(追記3)

 アバドについては,やはり中野雄氏の『指揮者の役割』14ページに記述がある。

 「彼がウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任し,カラヤンの後継者としてベルリン・フィルの音楽監督兼常任指揮者に就任してからしばらく経った頃のことである。私はウィーン・フィルに4人いたコンサート・マスターのうちのひとりに,『そういえば最近,アバドさんがウィーン・フィルの定期公演に登場しませんね』と尋ねた。すると,軽い話題として何気なく訊いただけであったのに,その人は私にキッと目を向けて,『

ええ,あの方はベルリン・フィルの音楽監督になられてから偉くなってしまって,勉強しなくなりました。ですから,うちのオーケストラの定期公演にはお招(よ)びしないことにしたんです』と言い放った。厳しいものである。」と。

 アバドウィーン・フィルを指揮したのは,1997年11月10日である。ムジークフェラインでの楽友協会コンサートで,曲は,シューベルト交響曲第5番ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》から前奏曲と愛の死,R.シュトラウスの《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》であった。

 確かに,この頃は,ベルリン・フィルともうまくいかず,苦しい時期だったように思う。頭でっかちで,覇気のない演奏が続いていたように思う。いろんな凝った企画をぶち上げるが,音楽がついてきていなかった。ピリオド奏法の勉強もかなりしていた時期だと思う。アバドベルリン・フィルの演奏が変わったのは,胃がんの手術をする直前,1999年頃。その頃から,何か,一皮剥けて,独特の不思議な音色・音質のする演奏をするようになった。

 なので,誰かは知らないが(想像はつくが),コンサート・マスターの「あの方は…勉強しなくなりました」という言葉はそのままは信じがたい。ウィーン流の皮肉ではないのかと思う。すなわち,本当は,「勉強ばかりして音楽がつまらなくなった」と言いたかったのではないか。もし本当に言葉通りの発言だとしたら,「勉強しないのはあなたたちでは?」と嫌みを言いたくなる。

 今となっては,ベルリン・フィルルツェルン祝祭管のイメージが強いアバドだが,一番相性が良くていい演奏をしていたのはウィーン・フィルとだったと思っている。なので,復帰を期待していたのだが,それがかなわないまま亡くなってしまった。ウィーン・フィルとの業績が無視されてしまっている(ように思える)状況は,何とも残念だ。

 

【5位 ドレスデン国立管弦楽団(シュターツカペレ)】

 ティーレマンはちっともいいと思わないので,違う指揮者でもっと聴いてみたい。

 ブロムシュテットの頃のいわゆるざっくりした弦の音はやはり素敵だと思う。

 

【6位 パリ管弦楽団

 昔からどうもよく分からないオーケストラ。

 

【7位 シカゴ交響楽団

 ムーティになってもっとCDが出るかと思ったら,そうでもなかったので,今の様子はあまりよく分からない。でも,Youtubeに出ていた第九は案外よかった。

 やはりショルティの頃は凄かった。管楽器が注目されがちだが,弦も超強力だった。ただし,アメリカ風のティンパニの音だけは苦手。

 バレンボイムが引き継いで凋落していったわけだが,シカゴでは非常に好かれていたと聞く。パリ管もそうだったが,なぜかショルティからバレンボイムが引き継ぐというパターンがあった。そういえば,マゼールからヤンソンスというのもあった(ピッツバーグ交響楽団バイエルン放送交響楽団)。どちらの場合も,前任者と後任者で音楽性が全然違うのが面白いが,どちらもオケのレベルは落ちてしまった。

 

【8位 ロンドン交響楽団

 ラトルが首席指揮者になるようだが,誰がなってもあまり変わらないように思う。

 

【9位 マーラー室内管弦楽団

【10位 ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン

 こういうところを入れておかないと,という時代の流れなんでしょうな。

 

【番外編】

 以上10位までの中で,1位に入れた人がいるのは,コンセルトヘボウを除く5位までだった。しかし,下位のオーケストラで,1人だけが1位を入れたのが2つあった。どちらも,その票だけ(つまり,合計10点)というのが面白い。

 それは,矢澤孝樹氏が1位にしたウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(WCM)と,平林直哉氏が1位にしたチャイコフスキー交響楽団である。どちらも,ほかに票を入れた人はいない。

 WCMは,ほかの何人が票を入れない理由を書いているが,要は,アーノンクールが死んだ後どうなるか分からない(解散するかもしれない)からということと,そもそも,こういう特定の指揮者とのつながりでできあがってきているピリオド・オーケストラへの疑問からである。それなのにあえて1位に入れてきた矢澤氏は,確信犯だと思うのだが,本企画の趣旨からはやはり外れているんだと思う。矢澤氏は,2016年10月の特集「人生の50枚 私のリピート・ディスク・リスト」でも,一人,クラシック以外の音楽を多数入れ,その理由についてぐだぐだ屁理屈を書いていた。はっきり言って,企画の趣旨に賛成できないなら,断るべきだ。好きなことを勝手に書きたいならブログにでも書けばいい。吉田秀和先生のお気に入りだったからといって,いい気になっているのではないか。既にこの世界で飯を食ってる人間ではないというところにも原因はあると思う。それはそれで面白いことが書けるバックグラウンドになってるのだろうが,編集部も甘やかしすぎだ。残念ながら,矢澤氏の文章は既にかなりマンネリになりつつある。刺激的なことを書かないとというプレッシャーがあるのだろうか。その結果がこのとおりだ。

 平林氏は,奇をてらったつもりなのだろうが,完全に滑ったと思う。確かに,1974年から40年以上もフェドセーエフとやっているというのはすごい。オーマンディフィラデルフィア管弦楽団の記録を抜いたと思う。しかし,世界で一番のオーケストラかと言って,賛成する人はいないだろう。実際,ほかに1点でも票を入れた人はいない。

 

自主避難者との間の深い溝

 今日の読売新聞に,原発事故による福島県からの自主避難者の記事が結構大きく出ていた。

 福島県民以外の方にはぴんと来ないかもしれないが,自主避難者(特に県外)とそれ以外の方との間には,深い溝ができてしまっている。

 残念ながら,自主避難者以外の福島県民の多くは,自主避難者のことを快く思っていないようだ。

 自主避難者は避難元の自治体は自分たちを見捨てたと思っているのだと思うが,自主避難者以外の方は自主避難者は避難元の自治体を捨てたと思っている。

 既に,公の場で自主避難者について述べることは,タブー化している。私もそのタブーを破るつもりはない。破ったところで何にもならないから。

 

 こういう問題の場合,敵を作って攻撃する,というやり方は得策ではないように思う。一部に熱狂的なファン(支援者)は現れるかもしれないが,どちらかというと敵を増やすだけで,結局は得られるものが少ないと思う。

 自主避難者の方は,攻める(責める)相手を間違っていると思う。内堀知事に合わせろと,貴重なお金と時間を費やして福島県庁に集まったりしているようだが,内堀知事に会ったところで何も変わらない。自主避難者の支援を福島県がやっていたのは,そう決められたからであって,本来は国か東電がやるべきことだからだ。国から金がもらえない限り,内堀知事は何もできない。無い袖は振れないのである。

 大坂の陣を終わらせたいからといって,真田信繁に会わせろと言ってもしょうがないのと同じである。

 できるだけ自主避難者以外の方を敵に回さず,国・東電と闘うことにエネルギーを使った方がいいと思う。自分たちの行動に正当性があるというのなら,尚更である。被災者同士で足を引っ張り合っていても,本当の敵を喜ばせるだけだ。

 

 

紅白で見えた 星野源 裏声と歌唱力の限界

 2016年のNHK紅白歌合戦星野源が「恋」を歌った。

 はっきり言って,声が出ておらず,特に裏声の部分はプロとしては恥ずかしすぎるくらい酷いものだった。23日のミュージックステーションスーパーライブのときよりもさらに酷くなっていた。声が全然出ていなかった。いくら何でもあれはないだろう。夜遊びしすぎたのか。

 そもそも,なぜこの人はすぐ裏声を使うんだろう。シンガーソングライターなのだから,自分の声の音域に合わせて曲を作ればいいのに。

 もちろん,裏声が全部ダメというわけではなく,感情表現の一つとして効果的に使うのならば分かる。しかし,「恋」の場合は声が出ないからしょうがなくて裏声で歌っているのは聴けば明らかだ。それが,裏声ですらまともに声が出ないのでは,プロ失格である。聴衆を嘗めているぞ。

 歌手の杏沙子がYouTubeで「恋」をカバーしているが,音を下げて裏声は使わないで歌っている。これだと,気味の悪い歌がだいぶまともに聞こえる。おそらく,音を下げても,裏声を使う方がプロとして許せないことだったのだろう。

 男性歌手が常人離れした輝かしい高音を轟かせるのは,歌を聴く楽しみの一つである。それを裏声で誤魔化すのは,プロとしては情けないやり方だ。高い音が出ないなら,出ないなりに歌ってほしい。そうでなければ,これからでもボイストレーニングして地声で高音を轟かせてほしい。

 星野源には,ぜひ,裏声を使わず,音も下げずに「恋」を歌ってもらいたい。それで名誉挽回してほしい。

 いずれにせよ,あの不名誉な歌が未来永劫残ってしまうことにはなってしまった。ただの歌番組ならともかく,天下の紅白である。どこで映像が使い回されるか分からない。それとも,再放送されるときには,こっそりと音源を差し替えたりするのだろうか。

 

 

 まさかと思うかもしれないが,クラシック音楽の世界だが,そういうことがあった。

 ここから先は星野源とは全く関係がない。

 1988年の最後のカラヤンの来日公演。5月4日の東京文化会館での演奏。グラモフォンから正規盤としてCDも出ている。この日のメインプログラムであるムソルグスキーの《展覧会の絵》で,冒頭のトランペットが思いっきり音を外したのだ。

 この日はFMで生中継があったので,エアチェックしていたのだが,その後,再放送の際にはミスなしのものに差し替えられていた。生中継をエアチェックしたテープに録音し直してしまったので記憶の中でしかないのだが,強烈に覚えているので間違いない。

 その後,20年ほどしてCD化されたときも,ミスなしのものだった。

 カラヤンの指示なのか,ベルリン・フィルの指示なのか分からないが,そういうことはあるのだ。

 なお,今はYouTubeなどで生放送のときのミスありの音も聴けるようだ。悪いことはできないということだ。

 

 さらに,同じくベルリン・フィルの1981年の来日公演の際,ラヴェルボレロトロンボーンのソロがやはり思いっきり音を外したということで有名なのだが,そのことがNHKのBSで以前放送していた「名曲探偵アマデウス」で紹介されていた。この曲の一番の難所ということで,N響の方が冷や汗を流しながら実演してくれていて,非常に面白いのだが,ベルリン・フィルの話の部分が,しばらく後の再放送ではカットされていたのだ。

 ベルリン・フィルからクレームがついたのだろうか。

 たまたま修正前と後の両方を録画していたので,意図的にカットされているのが確認できた。

 世の中こういうことがあるので面白い。初回放送は大事に取っておいた方がよいということである。

 

 

 ということで,紅白での星野源の歌も,完璧な裏声に差し替えて放送される可能性がある。生放送を録画していた方は,大事に保存していた方がよいですぞ。完璧な地声に差し替えられたりしたら,最高に面白いのだが。

 

 

 それより,NHKにはぜひ「名曲探偵アマデウス」の再放送と続編をお願いしたい。

 

(追記)

 星野源の新曲「Family Song」が8月16日に発売された。

 裏声頼りが相変わらずだったのは非常に残念。それ以上に,この曲は割ときれいなメロディーをゆったりと歌う曲なため,声の魅力のなさが際立っている

 ジャケットやPVの「おげんさん」もキモい。「おげんさんといっしょ」では,藤井隆高畑充希に完全に負けていたし。

 音楽活動としてはプロデューサーとして活動した方がいいと思うが,自分で歌わずにはいられないんだろうな,この人。

 

 で,今日8月18日は,ミュージックステーションに出演してFamili Songを歌っていた。またまた音を外したりして,歌唱力のなさを露呈していた。裏声も,生だと余計に目立つ。

 

 

星野源の「恋」

 今日が最終回の火曜ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌,星野源の「恋」。

 聴けば聴くほど,その珍妙な歌詞に頭が変になりそうだ。

 

 「営みの街」。いきなり出だしに来る言葉にしては妙だ。何のことだか分からないし。

 それが「暮れたら色め」くんだそうだ。「色めく」とはまた古風な。

 風「たち」は「運ぶわ」といきなり女言葉。そうか,女性が語っているという設定の歌なのか。

 そして,その後に風「たち」が運ぶのは「カラス」と「人々」の「群れ」。「カラス」はないでしょ。品がない。なさすぎる。女性じゃなかったのか,これ歌ってるの。

 

 そう,「意味なんかない」のさ。

 腹を空かせて「君」の元に帰るのは,女?男じゃないのか?

 

 それにしても,「物心」ついてからずっと,この世にいる誰もが「2人から」だなんて,随分ませてましたな。物心って何歳からつくんだ?

 

 「指の交ざり」。聞いたことないな。星野語か。ここが一番気になって仕方ない。

 

 「白鳥」は何を運ぶのだろう。当たり前を変えながら。どうやって変えるの?なんて言うのは野暮でしょ。

 

 

 面倒くさくなったのでここまで。あとは,繋げると意味のない言葉の羅列だ。

 

 

 思うに,この人の歌の作り方って,曲とタイトルが先にあって,それから連想される言葉を音楽に合わせて並べてるんだと思う。いわゆる「曲先」というやつだ。

 だから,この人の歌で,単語が不自然に切れて気持ち悪いということはあまりない。その代わり,全体として歌詞を読むと,ストーリーがなく,ほとんど意味不明。そして,辞書でも引きながら書いてるのか,聞き慣れない単語が突如としてポロッと出てくる。

 韻を踏みたがるのも特徴だ。踏まずにはいられないらしい。韻を踏まないのは歌じゃないと思ってるんだろう。だからやっぱり意味不明の言葉が羅列されることになる。

 その代わり,歌詞の意味を考えないで聴いたり歌ったりすると,気持ちいいんだろうと思う。

 

 歌詞の話じゃないが,やたら裏声を使いたがるのも気になる。はっきり言って気持ち悪い。

 YouTubeで杏沙子さんが星野源の歌を何曲かカバーしてるが,裏声を出さないので聴いててすごく気持ちがいい。それまで気持ち悪いなと思ってた曲でも,「結構いいじゃん」て思った。

 ハイトーンが出ないのにコンプレックスを持ってるのだろうか。

 確かに,星野源の歌唱力ってどうなんだろうって思う。作詞作曲ができて,楽器もたくさん弾けて,オールマイティな印象があるが,歌唱力がウィークポイントかも。

 

 

 「恋」については,MIKIKO先生の不思議な振付にも言いたいことがたくさんあるが,それはまたいずれ。

 

星野源の英語

 星野源の歌に「Friend Ship」というのがある。「Friendship」ではない。

 つまり,「友の船」か。演歌みたいだな。だから「さま~!」,「さま~!」,「ママー~!」って叫ぶのか。

 いや,それなら「Friend's Ship」だろ。「Friendship」じゃないんだから。

 でも,「船」なんて歌詞に出て来ないぞ。

 いや,きっと「友が船に乗るさま」を歌ってるのさ。だから「船」自体は出て来ないのさ。

 

 

 「Week End」という歌もある。「Weekend」ではない。

 「週が終わる」。終わるとどうなるんだ?

 でもそれなら「A Week Ends」か「The Week Ends」じゃないか。

 いや,そんなの歌のタイトルにしたら格好悪いだろ。だから「Week End」なのさ。

 でもこっちには歌詞に「週末」って何回も出てくるけど。それでも「Weekend」じゃないからな。

 分かった。「週末の街角」のことを「Week End」と言うのさ。きっと,星野源くらいじゃないと買えない高価な辞書には書いてあるのさ。

 だって,「街角」って街の終わりのとこだから,「End」に「~末」と「街角」を掛けてるんだろ。

 

 

 誰か,教えてほしい。

 

 

レコード芸術2016年12月号

 今月号の特集は「交響曲名盤100 21世紀のスタンダード・コレクション」。またですか、こういうの。企画が枯渇したようにしか思えないが、新しく編集者になった方がやりたかったのかな。やはり王道ですから。でも何かひねりを入れないといけないと思ったのでしょう、①基本コレクション究極の名盤50、②交響曲の神々ベートーヴェンブルックナーマーラーの名盤20、③さらに広がる交響曲の世界(30枚)、の3部構成。
 ①と②は満津岡信育氏、佐伯茂樹氏、相場ひろ氏の3人による鼎談方式で、③はテーマ別に1人の選者が3枚ずつ選ぶ方式。
 これで「21世紀のスタンダード」ってい言われてもねぇ。一体どれだけの人がそう思うでしょうか。①②だってこの3人ですから、無理して「スタンダード」にこじつけてるけど、なかなか厳しい。③は完全に行っちゃってて、とても「スタンダード」とは言えないでしょう。
 一番の収穫は、佐伯氏と相場氏の写真が見られたこと。今まで見たことなかったと思う。2人とも、いかにも「悪いオヤジ」の風貌で、とてもいい感じ。おふたりとも、満津岡化(というか諸石化)しないでほしい。

 その諸石氏は、今月号でもご療養とのことで交響曲の月評は一部のみ。どうぞ、無理をなさらないで、ゆっくりお休みください。誰も期待してませんから。

 特別企画は「追悼 ネヴィル・マリナー」。急な訃報でしたが、穏やかな最期だったそうです。92歳だったんですね。随分お世話になりました。クラシック音楽を聴くようになるきっかけはマリナーの演奏でしたから。ご冥福をお祈りします。
 思いでの1枚ということで15名の方の「いちばんよく聴いたディスク」が挙げられてますが、さすが、どれもひねりの効いたものばかり。確かに、珍しい曲もたくさん録音してましたが、もっとスタンダードなレパートリーでの功績も紹介してほしかった。これは企画ミスでしょう。
 私はやはりマリナーといえばモーツァルト。特に映画「アマデウス」のサントラとブレンデルとのピアノ協奏曲全集は宝物です。ほかにお勧めしておきたいのは、パッヘルベルのカノン。1973年録音のEMI盤(現ワーナー)と1984年録音のフィリップス盤(現デッカ)があるが、どちらも通奏低音にオルガンを使っているのが珍しい。これを聴いた後だと、チェンバロでジャラジャラやるのは品がないように思ってしまう(ゲーベルのだけは別)。73年盤がゆっくりしたテンポなのに対し、84年盤は割と早めにすっきりと演奏しているので、どちらもあった方が楽しめる。しかも、84年盤は、ジーグのあともう1度カノンを演奏するというサービスぶり。録音は、当然フィリップスの方が断然よい。

 あと面白かったのは、「レコ芸相談室」。ピリオド楽器の演奏についての質問で、①メッサ・ディ・ヴォーチェと②汚い音を出して強調する演奏について。回答者は谷戸基岩氏。
 メッサ・ディ・ヴォーチェというのは、古楽演奏で「語尾をフッと抜く」(本号28ページの佐伯氏の表現)のことだが、質問者はその奏法についてご存じなく、そういう弾き方の正当性について質問されたよう。しかし、谷戸氏の回答は、「メッサ・ディ・ヴォーチェ」という名前と、声楽の歌唱技法から来ていることと、奏者によって演奏の仕方は様々だということだけ。特に最期のところに回答のほとんどを費やしており、これでは回答になってないのでは。名前は教えたらあとは勝手に調べろということか。
 後の質問については、無理に好きになることはない、と全然回答になっていない回答。言葉遣いは一応丁寧だが、説教じみていて完全に上から目線。質問に対する回答なんだからそうなちゃうのかもしれませんが、バカにされたようで、質問者はさぞ不愉快でしょうな。
 谷戸氏というと、2016年6月号のレコ芸相談室で信時潔カンタータ「海道東征」に関する質問に対する回答について、7月号で俵孝太郎氏からひどいクレームをつけられていた人だ。まあ、私はこの論争についてはよく分からないのだが。

  要は、聞かれてもいないことをベラベラと書き連ねるのが問題なのだ。編集部は、的確な回答になっているかどうか、中身をチェックしないのだろうか。

 

原発事故による損害と損害賠償による代位-財物賠償による所有権の移転の問題-(4)

まとめ

 ここでは、東京電力福島第一原子力発電所事故におけるいわゆる「財物賠償」と「損害賠償による代位」の関係を見てきた。

 一番気がかりなのは、現在の東京電力の取扱いより、避難地域の財物(特に土地・建物)の所有権がはっきりせず、帰還者が安心して住めなくなることである。帰還者については、東京電力は所有権を取得しないと言っているのだから問題ないだろうと思われるかもしれないが、法的な争いというのはどこでどう起きるか分からないのであって、大抵は予想もしないところから発生し、関係なさそうな人が巻き込まれてひどい目に遭うことは有り得るのである。帰還して頑張っている方が、気が付いたらトラブルに巻き込まれており、土地・建物が取られていた(例えば東京電力の債権者から)といったことは決してあってはならない。

 また、財物賠償と中間貯蔵施設などの公共用地としての買収によって、賠償金の二重取りと避難されることも極力避けなければならない。そう言われないためのきちんとした理論武装が必要である。簡単な方法としては、ADRの事例にあったように、若干なりとも賠償金の額を評価額よりも低くし(例えば99%)、全額支払われていないとすることも検討すべきだった。今となっては遅いのだが。
 賠償金の額については、そもそも低すぎるとも言われており(私には分からないが)、それなのに二重取りと批判されるのは気の毒である。本当に適正な価格で賠償されているのかも検証し続ける必要があると思う。

 さらには、土地等の譲渡による一層の所有権の不明確化という問題もある。避難者から土地等を取得したものが、土地の所有権をめぐってトラブルに巻き込まれる可能性もある。

 今のところ、表だって所有権をめぐってのトラブルは起きていないようだが、いずれは訴訟に発展する事案も出てくるものと思われる。これに関する訴訟が大量に起こされる可能性だってある。
 まずは、税金(固定資産税と相続税)の支払をめぐって、地方自治体や国と避難者や家族との間でトラブルになることが考えられる。既に、固定資産税の免除がなくなったら国で土地を買い取ってくれという声が出ているのであるから、実際に課税されるようになったときに、所有権がないことを主張して納税を拒否する人が出てくる可能性は高い。そのときに自治体はどうするか。相当困るはずである。自治体が困るということは、住民が困るということである。
 固定資産税が問題となる前に、相続税で同じような事態が発生する可能性もある。相続税の場合は、まずは物納を考える人も多いかもしれない。そうすると、避難地域が国有地だらけになるということも考えられる。

 こうしたトラブルによって訴訟が多発すると、異なる下級審の判決が出て、所有権がメチャクチャになるおそれもある。おそらく、訴訟は東京電力と関係ないところで、避難者と自治体や第三者との間で争われることが多いだろう。その中には、東京電力の基準のとおりに財物賠償をもらった人、ADRをやった人、訴訟まで行った人など、様々な人がいることになる。そのとき、それぞれの訴訟の当事者間には関係がないから、集団訴訟というのはないと思われる。別々に審理されて別々に判決が出される結果、ある裁判では避難者に、ある裁判では東京電力に所有権があると判断され、そのまま確定することもあるだろう。中には最高裁まで争う事例も出てくるだろうが、そこまでたどり着くには何年かかるか。最高裁まで行ったところで、全ての事案に該当するような、判例となるような判断がされるとは限らない。そうなると、永遠に所有権が不安定なままとなってしまう。
 何とも恐ろしいことではないか。こういうことが起きないようにするのが、政治家や法律家の仕事のはずなのに、それに向けた動きは全く見えない。
 もう既に賠償は進んでおり、東京電力の基準のとおり全額を受け取っている方も多いはずである。これ以上、そしてこんなことで、避難者を苦しめるようなことがないようにしてほしい。

 ここではとても結論めいたことは書けない、というか、自分の中でもまだまだ考えている最中であるが、今後もこの件については注視していき、何か動きが見られたときは追記していきたい。

 まずは、こうした問題があることを多くの人に知ってもらい、考えてもらいたいと思う。

 

 

原発事故による損害と損害賠償による代位-財物賠償による所有権の移転の問題-(3)

原発事故の財物賠償における賠償者代位の現状

 自分はいわゆる財物賠償をもらえる所には住んでいなかったので、避難者と東京電力の間で実際にどのような手続が行われているのか、正確なところは分からない。
 今回、公開されている資料で調べた範囲で、情報を整理しておきたい。

1 中間指針第二次追補
 これは、平成24年3月16日に原子力損害賠償紛争審査会(原賠審)が公表した「東京電力株式会社福島第一、第二原子力発電所事故による原子力損害の範囲の判定等に関する中間指針第二次追補(政府による避難区域等の見直し等に係る損害について)」というもので、ここでいわゆる財物賠償についての考え方が示されている。
 この中間指針第二次追補では、「帰還困難区域内の不動産に係る財物価値については、本件事故発生直前の価値を基準として本件事故により100パーセント減少(全損)したものと推認することができるものとする」として、原賠審の立場上か分りにくい言い方になっているが、要するに、帰還困難区域の不動産についてはその価額の全部について損害賠償を支払うべきあるとの方針が示されている。
 一方、居住制限区域内及び避難指示解除準備区域については、「避難指示解除までの期間等を考慮して、本件事故発生直前の価値を基準として本件事故により一定程度減少したものと推認することができるものとする」としており、これだけではよく分からないのだが、実際には後述のとおり6年で全損扱いすることとされており、平成29年3月11日以降に避難指示が解除されれば全損扱いされることになっている。今のところ、川俣町と飯舘村の居住制限区域内及び避難指示解除準備区域が、全損扱いになると決まっている。


2 中間指針第二次追補Q&A集
 これは、文部科学省の原賠審関係のサイトに掲載されているもので、作成者は明記されていないが、原賠審がまとめたものと思われる。
 その中に、「問13.帰還困難区域における不動産価値が全額賠償された場合、所有権は東京電力株式会社に移転するのか。」という問いがあり、その答えは、「2.特段の取り決めをせずに不動産の価値の全額の賠償を受けた場合、不動産の所有権は賠償を支払った者(東京電力株式会社)に移転するのが原則です(民法第422条:損害賠償による代位)が、賠償に当たり事前に当事者間で話し合いを行うことによって所有権が移転するかどうかを決めることが可能と考えられます。」とある。
 つまり、原賠審は、民法422条の類推適用及びその任意規定性を認めているということである。したがって、東京電力と避難者の間できちんと契約を交わせば、無条件に所有権を避難者に残すことが可能との見解である。任意規定と解すべきかどうかには疑問もあるが、このとおりにきちんと当事者間で契約しておけば、中間貯蔵施設用地等での二重取りの問題はあるが、少なくとも、後になって避難者側から所有権が東京電力にあることを主張してくるといったトラブルはほぼ発生しないはずである。しかし、そうなっているのかどうか。つまり、きちんとした手続で「賠償に当たり事前に当事者間で話し合いを行うことによって所有権が移転するかどうかを決め」ているのかどうか。


3 東京電力の説明
 避難者に送付されている書類は手に入らないので、公表されている(インターネットで手に入る)手がかりから東京電力の説明内容を探ってみたい。

まず、東京電力が平成25年3月29日にプレスリリースした「宅地・建物・借地権等の賠償に係るご請求手続きの開始について」において、「*5 避難指示解除までの期間に応じた価値の減少分を算出するため、当社事故発生時から避難指示の解除見込み時期までの月数を分子(1月未満の日数については、1月とさせていただきます)、72ヶ月を分母として算定した数値。ただし、算定した結果が1を超える場合、避難指示期間割合は1とさせていただきます。また、避難指示解除の見込み時期について、事前に決定がない場合、居住制限区域は36/72、避難指示解除準備区域は24/72を標準とさせていただきます。なお、宅地・建物につきましては、事故発生当時の価値を全額賠償した後も、原則として、引き続きご請求者さまにご所有いただきますが、避難指示解除までの間は、公共の用に供する場合等を除き第三者への譲渡を制限すること等についてご承諾をお願いいたします。」との記載がある。
 ここでは3つのことを言っており、まず、①72か月、すなわち6年で全損扱いにするということ。次に、②全額賠償した後も東京電力が所有権を取得する意思がないこと、そして、③避難指示解除までの間は譲渡制限することに承諾を求めていること、の3点である。
 ここで問題にしているのは②なのでそこに話を絞るが、これだけでは何のことやらさっぱり分からない。

次に、平成25年3月に経済産業省が出した「新しい賠償基準について(避難指示区域内から避難されている方々へのご説明資料)」(平成25年3月)がある。これによると、宅地・住宅(建物)について、「東京電力は、宅地・住宅(建物)の賠償について、以下の事項を公表しています。」として、「なお、宅地・住宅(建物)は、全額賠償した後も、原則として所有権の移転は求めませんが、避難指示が解除され、一般的な土地取引が開始されるまでは、相続や公的な用地買収を除く、第三者への譲渡、転売等を控えていただく必要があります。」との記載がある。おそらく、前記東京電力のプレスリリースを受けて書いているのだろうが、所有権については言い回しが東京電力のものと異なるのが気になる。

 もう一つ、「司法書士菅波佳子のブログ」の平成25年4月9日の記事でこの問題を扱っており、この方は東京電力から避難者に送られた請求関係書類の現物を御覧になっているようなのだが、そこで、「東京電力(加害者)が一律に所有権を住民に残す扱いとしています。」と書いている。しかし、記載はこれだけで、請求関係書類に具体的にどのように書いているのかはっきりしないので、正確なところはよく分からない。
 現物を見てこのように書かれているので、少なくとも、東京電力が一方的に所有権はいらないと言っているだけで、避難者に所有権の取扱いの判断を委ねるような記載にはなっていないのではないかと思われる。このような対応で十分とは到底思えない。
 仮に、上記の程度の説明しかないのであれば、後々、所有権がいらないと考える方から、東京電力ときちんと合意していないことを理由に所有権が東京電力に移ったと主張されたり、あるいは東京電力から十分な説明を受けておらず重大な錯誤があるので和解契約は無効だと主張されれば、東京電力に勝ち目はないのではないか。


4 原賠審の見解
 原賠審の議事録はインターネットで公表されているが、財物賠償の基準を決めるに当たって賠償者代位の問題を検討した形跡は見られなかった。
 その代わり、財物賠償の指針を出した後、いわゆる住居確保損害について審議する中で、この問題が一部の委員から取り上げられている。
 平成25年12月26日の第39回原子力損害賠償紛争審査会において、大谷委員が、「賠償者の代位の問題を解決しないでこれを結論付けていいのか」と問題提起している。これに対して、能見委員長(当時)は、「賠償を受けたときに、賠償者の方に所有権が移転するのか、それとも、賠償を受けた被災者に所有権が残るのかという問題については、何度か御議論いただきましたけれども、審査会としては、この問題について、どちらの立場を取るというわけでもなく、その点は実は余りもう深入りはしないということでございます。」、「この賠償者の代位というのが、今までは全損賠償しないと代位は生じないというふうに考えていたけれども、本当はいろんな考え方はあり得て、一部賠償しても割合的に移転するという考え方もあり得るかもしれないので、代位の問題というのは、ここの審査会では立ち入ることができない問題ですよね。」と発言し、原賠審ではこの問題を議論しないこととした。
 しかし、賠償者代位の問題は、財物賠償の前提として非常に重要な問題であり、この問題を放置したまま議論を進めるというのは余りにも無責任ではないか。もちろん、法解釈あるいは立法に関わる内容であり、原賠審の結論が全てではないが、少なくとも明確に問題提起すべきであった。
 能見委員長は、割合的移転の考え方についても触れているが、物については一部賠償があっても一部代位は生じないと一般に解されており、そうだとすると割合的移転というのはあり得ない。民法の大家である能見委員長が知らないはずはなく、あえてこの話を出して議論を避けているのには、何か政治的な意図を感じざるを得ない。


5 福島県議会全員協議会
 これも、財物賠償ではなく、住居確保損害の際の議論であるが、平成26年8月18日の福島県議会全員協議会において、勅使河原議員が「確認のために聞くが、居住制限区域、避難指示解除準備区域に家を持つ避難者が、移住することが合理的と認められて賠償を受けたとき、賠償者に所有権が移転するのか、賠償を受けても割合分所有権が残るのか。賠償者の代位の考え方について聞く。」と質問している。
 これに対して、資源エネルギー庁原子力損害対応総合調整官は、「一般則ではあるが、民法第422条に「全損賠償した場合には所有権が代位する」旨の規定がある。しかし実際は、第四次追補以前の財物賠償について、東京電力(株)が全損賠償を行う場合でも所有権は取得していない。したがって、もともとの財物賠償の段階でも、東京電力㈱は所有権を取得することなく、本人に残したまま賠償している。(中略)今回の第四次追補に基づく賠償においても所有権を取得する予定はない。」、また、居住制限区域及び避難指示解除準備区域についても、「解除見込み時期は4~5年となっているが、財物賠償は6年で全損となっている。そのため、仮に居住制限区域の年数が延びて6年となった場合、全損の賠償金額となる。ただ、所有権の代位については、帰還困難区域と同様、行う予定はない。」と回答している。
 避難者との合意が必要であるという大原則を無視し、東京電力のやり方をそのまま追認しただけの、無責任な回答である。


6 ADR事例
 原発被災者弁護団・和解事例集Ⅰに、大熊町での建物の事例として、「損害賠償による代位(民法422条)を考慮し現在の価値をその5%と見積もり、これを控除した約1340万円の内払いを提案し和解成立」という事例がある。
 おそらくこれは東京電力による財物賠償が始まる前の事例であると思われるが、既にこのような事例があったということである。
しかし、その後、賠償者代位を考慮して和解した事例は掲載されていない。この弁護団の弁護士たちは、この問題をどう考えているのだろうか。何も問題ないというのだろうか。

 また、福島県弁護士会原子力発電所事故被害者救済支援センター運営委員会が公表している「原子力損害賠償紛争解決センター和解事例の分析Ver.2」(平成25年8月19日)には、「和解事例をみると、実質的に使用不能となった機器、資材、棚卸資産等が財物損害とされており(中略)あえて、財物の所有権留保条項を付記している事例も認められる(和解事例200、403)。」との記載があるが、それ以上の説明はない。


7 その他
 インターネットで調べた範囲で、この件に関する法曹関係者の意見はどうか。
 見つけた中では、法的な観点からまともにこの問題を取り上げているのは、中所克博弁護士のツイッターの発言だけであった。簡単ではあるが、ここで主な論点はほぼ取り上げられている。中所弁護士は、「やはり「所有権は東電に移らず被害者のもの」を原則としたうえ、所有権を欲しない被害者との間では個別対応するというのが合理的だと思う」とおっしゃるが、理論的には、先に述べたとおり、代位を原則としないと(東京電力に所有権が移るのを原則としないと)現行の法体系との整合性は取れなくなると思う。
 また、最後に、「私は、交換価値の金銭評価分を払っただけでは不動産賠償の全額を賠償したことにならないと考える」とお書きになっている。すなわち、全額支払ったという前提を覆すわけである。この考え方は当然あると思うし、魅力的である。私も、更に理論的な整理は必要だが、最後はそこに行きつくような気はする。
 しかし、国と東京電力は絶対にこの考え方は認めない(全額支払っていないことになってしまうので、当然である)だろうし、今後この問題を巡って問題が生じるとすると、所有権が東京電力に移ったことを主張する避難者の方から起こされることになると思われるが、その方たちは全額支払われたとしたいので、この考え方はとらないだろう。

 もう一つは、前述の菅波司法書士のブログがある。ここではいろいろな材料が提供されていて、今回非常に参考にさせてもらったので、一度御覧いただきたいが、残念ながら、疑問点が並べられているだけで、筆者の法的な観点からの見解は示されておらず、法律家の書かれたものとしては突込みが甘く残念である。
 なお、同ブログには、菅波氏の所属する福島県司法書士会の宣伝があるが、同会のホームページにある「財物(土地・建物・家財等)と東電賠償Q&A」にはこの代位の問題は全く取り上げられておらず、こちらも期待外れで残念である。

 それにしても、法曹関係者がこの問題を取り上げているのがたったこれだけとは。

 

 

原発事故による損害と損害賠償による代位-財物賠償による所有権の移転の問題-(2)

民法の規定

 不法行為により物が毀損され、加害者が損害賠償としてその全額を被害者に支払った場合のその物の権利(所有権等)については、民法に明文の規定はない。
 一方、債務不履行の場合には、民法422条に規定があり、債務者がその物について当然に債権者に代位するとされている(賠償者代位)。代位というと分かりづらいが、要するに、代わって権利等を取得するということだ。例えば、Aという人が10万円の腕時計をBという人に寄託して(預けて)いたが、Bがその腕時計を失くしてしまった場合、Bが損害賠償として10万円をAに支払うと、その腕時計の所有権はBに移転し、その腕時計が後から発見されても、Aに返還する必要はない、ということである。

 (損害賠償による代位)
第422条 債権者が、損害賠償として、その債権の目的である物又は権利の価額の全部の支払を受けたときは、債務者は、その物又は権利について当然に債権者に代位する。

 学説では、民法422条は不法行為にも類推適用されるというのが通説である。例えば、Aという人が過失によりBという人の200万円の自動車を修理不能なまでに壊してしまい、Bに損害賠償として200万円を支払えば、その自動車の所有権はAに移転する、ということである。

 民法422条が不法行為にも類推適用されることについては、被害者と加害者の間の公平の観点から妥当と考えられる。これは、被害者が賠償金を二重に利得することは許されないという考え方であり、「利得禁止の原則」とも言う。
 判例は、会社設立において発起人の重過失により設立無効の判決を受けた事例で、発起人が株式引受人に対して払込株式金額相当額を損害賠償として支払った場合に、傍論ではあるが、清算後の残余財産分配請求権について発起人が民法422条に準じて代位するとしたものがある(大審院昭和14年12月23日判決)。この判例が物を含めた不法行為一般について類推適用を認めたものかどうかは必ずしも明らかでないが、類推適用されないという理由は特段ないものと思われる。

 以上を原発事故に当てはめると、土地や建物などの財物全額について(全損扱いとして)損害賠償を受けた場合は、所有権は当然に東京電力に移ることになる。


 次に、不法行為民法422条が類推適用されるとして、それが強行規定任意規定かという問題がある。
 任意規定であれば、当事者間で民法422条の規定に反する取決めをしても有効であるから、両者の合意により所有権を被害者側に残すことも可能であるが、強行規定だとするとそうはいかなくなる。
 この点について、調べた限りではどちらだという見解は見当たらなかった。物が毀損された場合、その物に一般の市場価値はなくなっても、債権者(被害者)にとっては特別なものであり、一方債務者(加害者)にとっては全く不要なものであることもある。このような場合には、所有権を債権者側に残す(代位しない)こととしても、公平の観点からも特段問題は生じないであろう。
 したがって、不法行為民法422条を類推適用する場合にも、この規定を任意規定と解し、ただし、民法422条に反する合意の内容が公序良俗に反すると認められる場合は、その合意は無効であると解することができると思われる。
 あるいは、原則として強行規定と解すべきであるが、それが公序良俗に反しないものである場合には民法422条に反する合意も有効であるという考え方もあり得る。
 どちらの場合でも、民法422条に反する合意が認められる場合の一つの基準としては、毀損された物の市場価値がゼロかほとんどないということが考えられるが、前者の説をとれば広く、後者の説をとれば狭く解釈すべきということになる。


 以上は一般論だが、原発事故の場合の、特に土地については非常に難しい問題が生じる。いや、すでに生じている。
 例えば、避難区域において、避難者に帰還する意思がある場合はどうか。帰還するということは、全損扱いで全額について損害賠償したとしても、実際には利用可能なのであるから、市場価値が全くないとは言いがたい。しかし、原発事故のような事例において、帰還したいという住民に対し、市場価値があるから民法422条に反する合意は無効だとするのは妥当とは言いがたい。帰還する意向があるのであれば代位しないことを認められるべきではないか。しかし、実際に帰還されるのであればよいが、結局は帰還しないで第三者に売却したようなときには、二重取りの問題が起きる。「そのときは帰るつもりだった」と言われればそれまでだが、それでよいか。
 実際、中間貯蔵施設などの公共用地としての買収が予定されている地域においては、現にこの問題が発生している。表だって大きな問題にはなっていないようだが、例えば平成27年10月19日の福島民報の記事「賠償の底流-東京電力福島第一原発事故 第5部 財物(34) 一方的な基準疑問 手続きの法制化必要」では、大熊町の住民の話として、「二重取りとやっかむ人がいることは知っている」との話を載せている。
 財物賠償の金額や中間貯蔵施設の買収額は話題になるが、この二重取りの問題はほとんど表に出ず、議論もされていない。なぜだろうか。不可解極まりない。それほどアンタッチャブルな話なのだろうか。

 民法422条は、債権者に二重取りを許さないための規定であると考えられるので、現実的には二重取りを認めないと公共用地の取得(財物賠償も)が進まないという事情があるのだと思うが、法律論的には非常に問題だと思う。
 これを現状のように解釈論だけで片付けるのは無理なのではないか。やはり、原発事故に限っては、立法的に解決しないといけない問題だと思う。中間貯蔵施設用地の財源は国民の税金のはずである。東京電力の賠償金を充てているのだろうか(環境省の除染の対象となっていない河川などから出た廃棄物や土を中間貯蔵施設に搬入するには東京電力の了解がないとできないという話を聞いたことがあるが)。ろくな議論もせず、曖昧なまま(おそらく)税金が使われ続けるのは問題である。既に財物賠償の支払も、公共用地の買収も進んでおり、直ちに何とかしないと、後々とんでもないことになると思う。

 

原発事故による損害と損害賠償による代位-財物賠償による所有権の移転の問題-(1)

はじめに

 東日本大震災による東京電力原子力発電所事故で自宅が帰還困難区域とされ、避難させられた方が、「もう帰るつもりはないので、土地と建物を国で買い上げてほしい」と言っているのを聞いた。今後、固定資産税が課税されるようになれば(今は免除されている)、払わないといけなくなるからだという。
 固定資産税だけでなく、相続税もあるだろうし、何かの拍子に工作物責任を問われることだってあるかもしれない。もう帰らないと決めた方にとっては、不良資産でしかないだろう。国は、帰還困難区域について、今年の8月に、復興拠点や主要道路など限られた所以外は除染しないと決めたので、尚更である。この方のおっしゃることはよく分かる。

 しかし、国がというのは、税金でということなので、それはおかしいのでは。やはり東京電力にやってもらわないと。
 と、ここまで考えて、はっと思った。この方は既に東京電力から賠償金をもらっているのではないか。東京電力は、財物賠償(聞き慣れない言葉だ)と称して、土地や建物などについても既に賠償を行っているはずだ。ADRや裁判をやっていて決着がついていないなら別だが、そうでないならば、帰還困難区域の場合、土地・建物は全損扱いでその価額の全額を賠償されているはずだ。もちろん、東京電力による評価額が低すぎるという声はあるが、一応、東京電力としては合理的に見積もった金額で賠償しているということになっている。
 ということは、賠償金を全額もらった時点で、所有権は東京電力に移っているのではないか。

 民法では、不法行為原発事故による被害は、「不法行為」に当たると考えられている)について、損害を受けた物の全額が賠償されたときに、その物の所有権等がどうなるかについて、規定を置いていない。
 一方、債務不履行における損害賠償については、民法422条に規定があり、「債権者が、損害賠償として、その債権の目的である物又は権利の価額の全部の支払を受けたときは、債務者は、その物又は権利について当然に債権者に代位する。」とされている。
 通説では(判例はないのだろう)、民法422条の規定は、不法行為の場合に類推適用されると解されている。すなわち、他人の物を壊したりして、その物の価額の全額を損害賠償として支払えば、その物の所有権は当然に加害者に移るということだ。
 以上は、民法をかじったことのある人なら、誰でも知っている話である。
 ということはつまり、東京電力から全損扱いで財物賠償を受けた物(土地・建物など)については、当然に東京電力に所有権が移転するということになる。

 冒頭に述べた方が、国で買い上げるようにと言っているということは、こういうことになっているということを知らないということだろう。なぜこのような大事なことを知らないのか。不思議でならない。
 そして、財物賠償が適切に行われれば、帰還困難区域の民有地は全部東京電力のものになってしまうということだ。これはこれで恐ろしい話ではある。

 そこでまたふと疑問が。帰還困難区域の一部では、中間貯蔵施設の建設用地として国が土地の買収を進めている。ほかにも、公共用地として買収されているところはあるだろう。新聞報道等によれば、国(環境省)は、元の所有者(住民)から買収しているはずだ。
 これは、無権利者から購入しているということにはならないのか。
 住民は、東京電力から財物賠償として賠償金をもらい、さらに、国に売却すれば売却代金がもらえるということになる。これはまたおかしい話だ。こういうことのないように、民法422条が類推適用されることになっているはずだ。

 気になったので調べてみたが、国、原子力損害賠償紛争審査会(原賠審)、東京電力弁護士会などの公表されている資料を読んでも、どうもはっきりしない。
 自分自身は財物賠償はもらっていないので、住民と東京電力の間でどういうことになっているのかは、はっきりしたことは分からない。
 調べれば調べるほど、頭がもやもやしてくる。何か怪しいし、おかしい。

 これから、この問題について、少ない資料を基に考えていきたいと思う。